中浜村(読み)なかのはまむら

日本歴史地名大系 「中浜村」の解説

中浜村
なかのはまむら

[現在地名]土佐清水市中浜

大浜おおはま村西北の湾奥にあり、鼻前はなまえ七浦の一。郷帳類には「中ノ浜村」と記される。かつて西方小浜とよばれる浦があったが、津波で流亡したと伝える。「土佐州郡志」は「中浜浦南向 無港、東西七町許南北四町許、西限宇土之崎、東限弘浦、浦戸凡四十余、漁人到冬伐保佐薪為業」と記す。

天正一七年(一五八九)の中ノ浜地検帳によれば検地面積五町余、屋敷数一三うち居屋敷一一。すべて加久見左衛門大夫の給地。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に中浜浦刀禰がみえ、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によると水主数四五、船数七(廻船二・漁船五)。元禄地払帳によれば本田高六一石余(蔵入地)、新田高一〇八石余(貢物地)。宝永四年(一七〇七)の「亥の大変」では大きな被害を受けた(南路志)。同七年の下灘浦々縮書は大浜浦をも含めて中浜浦の項を立て次の諸数値を記す。分一役所一、御米蔵一、津口一(浅木・保佐・薪少々を出す)、高札場八、家数六九、人数四七七(前年より二人増)、留山四、船数七、うち廻船三・漁船四、網数五、馬二〇、牛三。寛保郷帳では家数五一、人数四八七、猟銃四、船一五。「西浦廻見日記(安永七年)には「浦あしからず、人家人数すこしづゝ近年益すよし、畠もひらけて見ゆ」とみえる。

「西郡廻見日記」(享和元年)によると、浦庄屋がおり、本田高六〇石余、新田高一六〇石余、家数六四、人数五六一、漁船五(小船・網とも)、瀬ノ魚ふね八、イカ網八、廻り漁船一一(小船・網とも。ただし宇佐浦船・須崎浦船・謂ノ浜浦船)、「三月十日より地船五艘六千四百、松魚代積九貫目余、廻り船拾壱艘壱万四千弐百尾、代〆弐拾壱貫四百匁程」と記す。天保年間(一八三〇―四四)浦々諸縮書では高札場一、廻船三、市艇七、鰹漁船六、諸漁船一四、諸網一四、漁業は鰹と小漁、漁間渡世は畑作、家数一六八、人数九五四、職種別では家族その他を含めて庄屋二一、水主・漁師五八六、商人一一八、職人一一七、間人一〇九、瞽女坐頭三。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]城東区中浜一―三丁目・森之宮もりのみや二丁目、東成ひがしなり中本なかもと一―二丁目

天王田てんのうでん村の南西にあり、平野川が集落の西を北流。古く中間なかま村と称し、のちに転じて中浜村と表記するようになったと考えられる。「摂陽群談」には「中浜村、世俗奈加末村と称す」とあるので、江戸時代中頃まで中浜と書いて「なかま」と読んでいたようである。「中浜」の表記は慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図にみえるのが早い。「摂津名所図会大成」は「日本書紀」仁徳天皇二二年正月条に「押照る難波の崎の 並び浜並べむとこそ その子は有りけめ」とあるならはまを、「古海神の二神を並べ祭」った地と考え、村内白山しろやま権現社(現白山神社)にあてる。また当村を「新勅撰集」などにみえる玉造たまつくり江に比定する説もある。中世は四天王寺(現天王寺区)新開しんかい(現東成区)に含まれたと思われる。

中浜村
なかのはまむら

[現在地名]芦原町なかはま

竹田たけだ川と兵庫ひようご川が合流する地点の東方に位置し、藤沢ふじさわ(現三国町)の東にある。正保の越前国絵図によれば、金津かなづ宿(現金津町)三国みくに(現三国町)を結ぶ交通路が当村の北方を通っていた。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として本庄ほんじよう郷の一村に「中浜ノ村」の名がみえる。また天正八年(一五八〇)と推定される教如書状(福円寺文書)の宛先の村名中にも「中の浜」がみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしん郷に含まれる。江戸時代には寛永元年(一六二四)以降丸岡藩領。

丸岡藩領全域について慶長三年の検地帳の末尾の部分を記録した越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば、惣石高一二六〇・七七石で田方四九町二反余・畑方三四町二反余。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]柏崎市中浜一―二丁目・大久保おおくぼ二丁目・番神ばんじん一丁目

川の河口部西方に位置し、東は対岸の柏崎町・大窪おおくぼ村、南は大窪村、西は下宿しもじゆく村、北は日本海に面した北陸道沿いの村。近世の支配は柏崎町と同様。正保国絵図に高一五石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高二三石三斗余、うち塩高一四石四斗余。同年の検地帳写(柏崎市立図書館蔵)ではかがみ郷に属し、畑屋敷一町一反余、塩場・塩屋二町三反余。屋敷は一〇六筆。天保九年(一八三八)の御巡見様御案内帳(同館蔵)によれば戸数二九六、男六四〇・女六九八。男は漁業と日雇、女は魚売や漁業手伝に従事、製塩も行う。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]姫路市飾磨区中浜町しかまくなかはまちよう一―三丁目・飾磨区英賀しかまくあが飾磨区今在家しかまくいまざいけ

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川支流水尾みずお川の下流右岸に位置する。海岸部の平坦な沖積平野に立地し、西隣の英加あが村と地理的に一体の関係にある。慶長国絵図に「あか中浜村」とみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では中浜村と記され、田方一八七石余・畠方一〇石余。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]山北町中浜

西は日本海に面し、東を法妙ほうみよう川が流れる。北東は原海はらみ村に接する。海沿いにねずせき(現山形県西田川郡温海町)へ抜ける道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図によれば「大川分中浜村」とみえ、本納一〇九石五斗・縄高六七石九斗五升四合、家四軒、「大川町ヨリ中浜迄五里」と記される。東方「原見村」との間には「人ミ石」とよばれる岩が描かれる。正保国絵図では高一八〇石余。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]糸魚川市中浜

北陸道に沿い、西は中宿なかしゆく村、東は間脇まわき村に続く。古くは浦本うらもと村のうちで、元禄郷帳に「中宿村枝郷」と注記される。延宝五年(一六七七)の村々高付之帳によれば、地高一八石余・浜高二石三斗余・山高一三石四斗余、庄屋一・百姓一三・神主一が早川はやかわ谷大肝煎の支配を受けている(糸魚川市史)。天和三年郷帳に高八四石八斗余とある。明和三年(一七六六)間脇村・中浜村明細帳に「男女作間の稼ぎ、漁猟一色の渡世にござ候。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]富来町中浜

給分きゆうぶん村の西にあり増穂ますほヶ浦に面する砂丘地の村。「能登名跡志」に「富来より剣地村へ行くには、三町許に中浜とて入浜あり。秋末は風荒く難所也」とみえ、外浦街道が地内を通る。正保郷帳の高一〇五石余、田五町余・畑一町九反余、免五ツ三歩四厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高九七石、免五ツ八歩、小物成は猟舟櫂役一二匁(退転)・網役二三匁(退転)・外海船櫂役一四匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

中浜村
なかはまむら

[現在地名]志賀町中浜

琵琶湖畔にあり、南は南浜みなみはま村、西は高城たかしろ村。和邇中浜わになかはまともよばれた。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に中浜村とあり、高二六五石余。寛永石高帳では高三四三石余、幕府領。慶安高辻帳では田方二七六石余・畑方三〇石余・永荒四五石余。元禄郷帳では高三三〇石余、旗本伊東領。天保八年郷帳では高三二一石余の中浜村と、中浜村地先で高一石余の中浜新田があり、いずれも幕府領。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]丹後町中浜

尾和おわ村の西に位置し、日本海に臨む漁村。中世宇川うかわ保の地。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内 中浜村」と記される。寛文九年(一六六九)宇川村から分離・高付された。延宝三年郷村帳に高六六・三五九石とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で一三三石余となった(天和元年宮津領村高帳)

伝承によれば、耕地少なく、文亀年間(一五〇一―〇四)までは戸数二、三〇戸の貧しい農村であったが、大永年間(一五二一―二八)に若狭三方みかた(現福井県)の漁夫がこの地に来て試漁したところ好結果を得たので、三〇余戸が移住してきたという。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]双葉町中浜、浪江なみえ町中浜

前田まえだ川河口近くにあり、西は両竹もろたけ村、南は中野なかの村。寛永一六年(一六三九)の検地高五八五石余であったが、明暦二年(一六五六)中野村を分村して高は五七石に減じた(相馬藩政史)。正保郷帳では田方二七二石余・畑方一一四石余。元禄郷帳では高四二石余。

中浜村
なかはまむら

[現在地名]新潟市内野中浜うちのなかはま新中浜しんなかはま

北を五十嵐浜いからしはま村、南を中権寺ちゆうごんじ村新田に挟まれ、北方砂丘地と南方低地の境に立地する。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録には中浜村塩年貢八石八斗とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報