中泉村(読み)なかいずみむら

日本歴史地名大系 「中泉村」の解説

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]磐田市中泉・国府台こうのだい今之浦いまのうら見付みつけ

見付宿の南、磐田原台地の南端部に位置し、東は二之宮にのみや村。豊田とよだ郡に属する。東海道が村の中央を南北に通り、中泉代官陣屋の南で西に折れ、東西に通る。中泉町とも称し、元禄七年(一六九四)から同一六年までの年貢割付状(中泉村文書)には中泉町とある。

建武元年(一三三四)一二月二九日の遠江守護今川範国書下(秋鹿文書)八幡宮(現府八幡宮)領として中泉郷がみえ、守護使不入とされている。同四年八月一四日には郷内での殺生が禁じられた(「遠江守護今川範国書下」同文書)。また貞和五年(一三四九)三月一四日には中泉郷への臨時課役の催促が停止された(「遠江守護今川範国書下」同文書)。八幡宮は戦国期には遠江に進出した戦国大名今川氏の庇護を受け、大永八年(一五二八)三月二八日には今川氏輝により同宮領として安堵され(「今川氏輝判物」同文書)、天文一〇年(一五四一)一二月三日の今川義元判物(同文書)では年来無足となっていた当郷内五反田を新寄進として同宮神主秋鹿氏に還補され、郷内不入が安堵されている。徳川家康の支配下に入っていた天正一五年(一五八七)一一月二八日、中泉から駿府までの遠江・駿河の各宿に人足一人を出すことが命じられた(「徳川家康伝馬手形写」記録御用所本古文書)。中泉にはのちに御殿とよばれる家康の別荘が建てられ(「遠州中泉古城記」中泉町誌)、同一六年一月二九日、家康は中泉で鷹狩をしている(家忠日記)。その後も家康の上洛の際などにしばしば宿泊先として使われた(同書同年三月一日条など)

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]直方市中泉

彦山川下流左岸に位置する。北は下境しもざかい村、北東は彦山川を挟んで上境村、南は嘉麻かま勢田せいた(現頴田町)、南東は豊前国田川郡市津いつち村・草場くさば(現赤池町)。福岡藩成立後は同藩領となるが、元和九年(一六二三)から延宝五年(一六七七)、および元禄元年(一六八八)から享保五年(一七二〇)までは東蓮寺藩(直方藩)領であった。古く当村は上境村の枝郷であったが、のちに別村となった。分村の時期について「続風土記拾遺」は明暦元年(一六五五)のこととし、「直方市史」によると遅くとも安永二年(一七七三)までに別村となっていたことが確認できるという。また古くは上境村のうち今林いまはやし村と称し、のちに能方のうがた村に改めたという。

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]群馬町中泉

福島ふくしま村の北、三ッ寺みつてら村の東南にあり、天王てんのう川西岸から唐沢からさわ川のほぼ東岸にかけて位置する。土地は平坦で緩やかに南東に傾斜、村の中央やや西寄りに南北に三国街道が走り、南西部は集落と畑地、北東部も集落と畑地で南東部は水田と畑地。南東天王川岸に八号古墳(前方後円墳)があり、南部内出うちで箕輪みのわ(現箕郷町)の支城の小塁がある。またいわゆるあずま古道が通る。

元和五年(一六一九)の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名がみえる。高二六九石余、田方九町六反・畑方一三町余、高崎藩領。

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]五所川原市中泉

北流する川が西へ迂回する左岸にあり、東は十川を境に羽野木沢はのきざわ村、西は梅田うめだ村、南は瀬良沢せらざわ(現北津軽郡鶴田町)に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に中泉村一三七・七一石とある。貞享四年(一六八七)検地帳には瀬良沢村支村深井ふかい村として田方三七町八反五畝二九歩・畑方二一町五畝一一歩、田畑屋敷合せて五八町九反一畝一〇歩、村高四二〇・三三七石とあり、貼紙によれば享保一一年(一七二六)に本村となり、村名を中泉村に改めている。

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]亘理町逢隈中泉おうくまなかいずみ

阿武隈川南岸、西の田沢たざわ村の下流に位置する。江戸浜街道の阿武隈川渡河点であり、藤波ふじなみ渡とよばれた(亘理郡地誌)。本村西南方に亘理伊達氏の足軽町であるかみまち、北方に今泉いまいずみ、西北方に吹上ふきあげの字地がある。正保郷帳では田一貫五七文・畑二〇貫三八九文で、水損と旱損の村の注記がある。貞享元年(一六八四)の郡村石高(仙台藩史料)では村高一九六石七斗余。「封内風土記」の戸数は二〇、今泉に一七戸。用水はしん堀・町裏まちうら堀など五ヵ所の堀を利用し、悪水あくすい堀など三ヵ所の悪水用の堀を設ける(亘理郡地誌)

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]壬生町中泉

助谷すけがい村の北に位置し、東は小林こばやし村など。縄文時代の中泉遺跡・欠の上かけのうえ遺跡がある。慶安郷帳に村名がみえ、宇都宮藩領、田一八五石余・畑一九八石余。寛文四年(一六六四)の宇都宮藩領知目録にも記載される。元禄郷帳では高六三八石余で旗本畠山知行地。改革組合村でも同氏知行で家数六七。旧高旧領取調帳では幕府領一三二石余・畠山氏(足利氏と改姓)知行六三八石余となっている。南西の羽生田はにゆうだ村の秣場の入会をめぐり、寛文一二年に同村との間に争論が起きている(「壬生領野場之事覚」益子清文書)

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]久留米市山本町耳納やまもとまちみのう

東泉村の西に位置し、山辺やまべ往還の南に屋敷地がある。耳納山中に高塚御立山がある(上三郡絵図)。中和泉とも記す。本高は二六一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四一〇石・役高三七五石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗九升、人数一一六、馬一二(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三九一石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田二二町六反余・開田一反余・畑四町二反余・居屋敷三反余。同じ頃の本地高五一七石余・物成高一七三石余、開高三石余・物成高一石余(「本地開本免帳」中村家文書)

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]岩瀬町中泉

岩瀬盆地の西部、結城街道沿いにあり、北は下泉しもいずみ村。江戸時代は笠間藩領と天領で、「寛文朱印留」には笠間藩井上氏領として村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池二があり、上野新田うえのしんでん小幡おばた・中泉各村の用水池である。街道の橋は一ヵ所あり、前記三ヵ村で普請をした。

中泉村
なかいずみむら

[現在地名]富来町中泉

八幡座主やわたざす村の西の小村。八幡宮伝記(曾原文書)にみえる富来八幡神社の八神戸の一、中泉名にあたるという(能登志徴)。正保郷帳には「給分村 中泉村 相坂村」として一括して高付され、高二四六石余、田八町八反余・畑七町六反余、免四ツ九厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高四三石、免四ツ七歩とあり、小物成はない(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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