亘理郡(読み)わたりぐん

日本歴史地名大系 「亘理郡」の解説

亘理郡
わたりぐん

面積:一三六・二二平方キロ
山元やまもと町・亘理わたり

県海岸部最南端に位置し、南は福島県相馬そうま新地しんち町、西は阿武隈丘陵の先端が低く阿武隈川まで落込む稜線を境に伊具いぐ丸森まるもり町・角田かくだ市、北は阿武隈川を境に岩沼市、東は太平洋。中央部をほぼ南北に国道六号(江戸浜街道)が通る。丘陵東麓には大小の沼池が点在し、丘陵を源とする小河川とともに農耕用水に利用されている。県内では最も温暖な地域といえる。

亘理の名は「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に「曰理」とある。

〔原始〕

丘陵北部の東麓、手掌状台地に遺跡が多く、国道六号とほぼ並列して各時代の遺跡が分布する。小河川によって形成された沖積地や浜堤には数遺跡があるのみ。亘理町逢隈牛袋おうくまうしぶくろの北部開墾地の谷地添やちぞい遺跡は旧石器時代の遺跡として知られる。縄文時代の遺跡数は約三〇ヵ所。逢隈下郡の椿しもごおりのつばき貝塚は後・晩期の貝塚で、竪穴住居跡の検出と銛などの骨角製品が発見された。後・晩期の亘理町吉田の畑中よしだのはたなか貝塚、中期から晩期の山元町山寺山下やまでらやました中島なかじま貝塚はともに淡水産シジミ中心の貝塚で、周辺の自然環境をよく示す。弥生期の遺跡も多く、稲作用具といわれる石包丁が発見された遺跡は九遺跡を数える。古墳時代の高塚古墳として、五世紀造営と考えられる全長約四〇メートルの前方後方墳を中心とする亘理町長瀞ながとろ長井戸ながいど古墳群、埴輪が発見された吉田の大塚おおつか古墳がある。山元町にも八基ほどの合戦原かつせんはら古墳群がある。郡内には横穴古墳群が多く、ことに亘理郡衙の推定地の一つである逢隈の上郡かみごおり・下郡地域のそでさわ雁田がんた田沢たざわ堰下せきした堤の内つつみのうち中沢なかざわに密集する。逢隈神宮寺じんぐうじ竹の花たけのはな横穴は特異な大型横穴古墳である。長井戸古墳群に接して古墳時代から平安時代にかけての集落跡吉田の宮前みやまえ遺跡がある。

〔古代〕

奈良・平安時代の集落遺跡は約四七ヵ所あり、丘陵先端部に分布する。そのなかの吉田の中原なかはら窯跡や合戦原窯跡は登窯による須恵器生産地と思われる。逢隈下郡の三十三間堂さんじゆうさんげんどう遺跡は郡衙に関係した郡倉跡とも仏教寺院跡とも推定されている。

郡の創置年次は明らかでないが、「旧事本紀」国造本紀に「思国造」とある「思」を曰理とする説があり、国造制が国郡制になる際に郡に編成替えされたとすると、陸奥国(道奥国)創置時から存在した郡となる。陸奥国創建を七世紀中頃とみると七世紀後半にはこの郡は存在したことになる。郡名は「続日本紀」養老二年五月二日条に「割陸奥国石城・標葉・行方・宇太・曰理・常陸国之菊多六郡、置石城国」とみえ、曰理郡は石城いわき国に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報