中塚一碧楼(読み)ナカツカイッペキロウ

デジタル大辞泉 「中塚一碧楼」の意味・読み・例文・類語

なかつか‐いっぺきろう【中塚一碧楼】

[1887~1946]俳人岡山の生まれ。本名、直三。河東碧梧桐かわひがしへきごとう新傾向俳句の中心作家。「海紅創刊に加わり、のち主宰句集はかぐら」「多摩川」など。

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精選版 日本国語大辞典 「中塚一碧楼」の意味・読み・例文・類語

なかつか‐いっぺきろう【中塚一碧楼】

俳人。本名直三。岡山県出身。河東碧梧桐に認められ新傾向俳句の中心作家となる。碧梧桐とともに「海紅」を創刊、碧梧桐没後は同誌を主宰。印象鮮明な句を多く作った。句集「はかぐら」「多摩川」など。明治二〇~昭和二一年(一八八七‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中塚一碧楼」の意味・わかりやすい解説

中塚一碧楼
なかつかいっぺきろう
(1887―1946)

俳人。岡山県玉島(現倉敷市)に生まれる。本名直三(なおぞう)。岡山中学在学中キリスト教の洗礼を受けている。1907年(明治40)上京、早稲田(わせだ)大学商科入学、飯田蛇笏(だこつ)らの早稲田吟社に入り『国民新聞』俳句欄に投句し、当時の自然主義文学思潮の影響を受けた。08年より河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)選「日本俳句」(雑誌『日本及日本人』俳句欄)に投句、新傾向作家として頭角を現し、09年には新傾向の中心作家となった。10年末、選者否定の俳誌『自選俳句』を、翌年また早大文科に入学して『試作』を、12年(大正1)には『第一作』(『試作』改題)を創刊して個性的な口語自由律の作を発表した。15年碧梧桐とともに『海紅(かいこう)』を創刊し、碧梧桐が去った22年からは同誌を主宰して『層雲』と並んで自由律俳句の流れを形成した。作風は初め頽唐(たいとう)風、のち清新平明な叙情風に移った。句集に『はかぐら』(1913)、『一碧楼句抄』(1949)など。

[伊澤元美]

 千鳥鳴く夜かな凍(い)てし女の手
 飛騨(ひだ)のかた大空秋となり

『『日本詩人全集30』(1969・新潮社)』『尾崎騾子著『中塚一碧楼研究』(1976・海紅同人句録社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中塚一碧楼」の意味・わかりやすい解説

中塚一碧楼
なかつかいっぺきろう

[生]1887.9.24. 岡山,玉島
[没]1946.12.31. 東京
俳人。本名,直三。 1907年早稲田大学商科中退。帰郷し,河東 (かわひがし) 碧梧桐の新傾向俳句運動に共鳴,その中心作家となり『自選俳句』 (1910) ,『試作』 (11) ,『第一作』 (12) を刊行荻原井泉水とともに口語自由律俳句運動の双璧となった。季題無用論に反対して碧梧桐が井泉水の『層雲』を去ると,師とともに『海紅』を創刊 (15) ,やがてこれを受継いだ (22) 。句集『はかぐら』 (13) ,『一碧楼第二句集』 (20) ~『一碧楼第五句集』 (32) 。

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百科事典マイペディア 「中塚一碧楼」の意味・わかりやすい解説

中塚一碧楼【なかつかいっぺきろう】

俳人。本名直三(なおぞう)。岡山県生れ。早大商科中退。河東碧梧桐師事荻原井泉水とともに新傾向俳句の中心作家として活躍,口語自由律の作を発表した。碧梧桐のあとをうけ《海紅》を主宰,句集《はかぐら》《一碧楼一千句》がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中塚一碧楼」の解説

中塚一碧楼 なかつか-いっぺきろう

1887-1946 明治-昭和時代前期の俳人。
明治20年9月24日生まれ。新傾向自由律俳句をつくり,明治44年「試作」を刊行。大正4年河東碧梧桐(かわひがし-へきごとう)とともに「海紅(かいこう)」を創刊,のち主宰し,荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)と自由律俳壇を二分する。昭和21年12月31日死去。60歳。岡山県出身。早大中退。本名は直三。句集に「はかぐら」など。
【格言など】われを愧(は)ぢてゐ枯草など焚火してゐる

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世界大百科事典(旧版)内の中塚一碧楼の言及

【自由律】より

…第2次世界大戦中は衰退し,戦後また主としてプロレタリア短歌系の歌人らによって自由律がおこなわれているが,その勢力は微弱である。【木俣 修】
[自由律俳句]
 新傾向俳句が俳句の旧習を脱しようとしてあたらしい試みをしながらも,なお定型と季題を捨てきれなかったのを不満として,季題の拘束から離れ,自由な表現を試みたのが中塚一碧楼らで,俳誌《第一作》(1912)によってはじめてこれを試みた。これが自由律俳句運動のおこりで,1914年(大正3)には荻原井泉水が俳誌《層雲》でいっそう大胆な自由表現と季題無用論を唱えて加わり,さらに17年には河東碧梧桐も口語表現のさけがたいことを論じて運動に投じた。…

【新傾向俳句】より

…乙字の啓発と自然主義の影響下に,河東碧梧桐は季題趣味の打破と生活実感の直写による主観尊重の新風を目ざし《日本俳句鈔第一集》を編むとともに,〈真に返れ〉と唱導した。(2)第2期 09年碧梧桐は第2次全国旅行で〈接社会的態度〉による個性発揮を説き,中塚一碧楼(1887‐1946)の〈誰のことを淫らに生くと柿主が〉,中塚響也の〈雨の花野来しが母屋に長居せり〉を接社会的態度の実感句,事実に即した無中心句として称揚した。これは近代的自我の表現を目ざしながらも自然主義の影響で雑報的・散文的方向に進んだものであった。…

※「中塚一碧楼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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