不動山城跡(読み)ふどうさんじようあと

日本歴史地名大系 「不動山城跡」の解説

不動山城跡
ふどうさんじようあと

[現在地名]赤城村見立 二城

奥沢おくさわ川と大久保おおくぼの沢が赤城山麓崖を深くえぐって形成した舌状台地の突端に位置し、南西に白井しろい(現北群馬郡子持村)・渋川寄居、遠く蒼海おうみ(現前橋市)、北方に津久田つくだ城を望む枢要の地にある。台地脚下に石造不動明王像を祀る洞窟があるのでこの名称が生れたものであろう。別名二城にじようは赤城山西麓崖上に点在する白井長尾氏支配下の城のうち白井に最も近く、また要害の地にあり、平姓長尾氏正統系図(双林寺蔵)に長尾景春・憲景が退避の城として用いたと記すように、白井城につぐ支城の意であろう。「上州故城塁記」に「樽 在見立与樽村之間」とあるたる寄居もこの城をさしていると考えられる。なお元亀三年(一五七二)一〇月一八日の長尾顕景書状写(「歴代古案」所収)に「誠此度不思儀之仕合を以、当地へ罷移候」とみえる「当地」を不動山城とする説があるが、これは八崎はつさき(現北橘村)でこの城ではない。

不動山城跡
ふどうやまじようあと

[現在地名]糸魚川市越 不動山

はや川右岸にある不動山は標高四五〇メートルの独立山塊で、南・西・北は数十メートルの断崖で、南東方向の要害ようがい集落に続く方面のみがなだらかである。その南に早川激流がある。山頂本丸跡は東西二三メートル・南北二一メートルで、早川谷の村々を一望し、越中口の勝山かつやま(現西頸城郡能生町)をも遠望できる。南の信濃仁科にしな口に備える根知ねち城とも連携している。本丸から一〇メートル下がって帯郭が北・東・南を取巻き、竪堀も十数本あり、用途は不明だが七条の畦形竪堀遺構も残る。竪堀や横堀の規模が大きく、長さ三〇メートル以上のものが多い。郭二二・削平地四三八・堀切四・竪堀一九・土塁一・石垣八・井戸二があり、城としての規模の大きさがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報