越村(読み)ひごしむら

日本歴史地名大系 「越村」の解説

越村
ひごしむら

[現在地名]玉村町樋越

上福島かみふくじま村北側一帯に広がる東西に長い村で、西は端気はけ川を挟み群馬郡下阿内しもあうち(現前橋市)、北は飯塚いいづか藤川ふじかわ力丸りきまる(現前橋市)の各村、東は西上之宮にしかみのみや(現伊勢崎市)。村名の由来は利根川が小流だった頃端気川の水を樋で越していたことによると伝える。字本郷ほんごう西方、現県道大胡―玉村線沿いに字樋場といばがある。古くは神人しんじん村と称したと伝え、南北朝末期の長福寺領目録案(久我家文書)にみえる「玉村御厨内神人村」は当地に比定される。在地土豪に樋越氏がいたという。

「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方四九二石余・畑方四〇九石余。

越村
こしむら

[現在地名]糸魚川市越

はや川中流域両岸に広がる。右岸の不動ふどう(四五〇メートル)南東麓に要害ようがい、その南の裾に岩本いわもと谷内やち上越かみこし・下越、左岸越川原こしかわらの各集落がある。古代北陸道は日光寺につこうじから渡河して岩本へ通じ、さらに上流へみやだいら吹原ふきはらと至り、島道しまみち越で能生のう谷の島道(現西頸城郡能生町)へ通じるとする説がある。口碑によると、近世早川谷大庄屋伴氏の祖伴清水が南北朝期に南朝方として近江国より来住と伝える(西頸城郡誌)

越村
ひごしむら

[現在地名]大胡町樋越

河原浜かわらはま村の東に位置し、宮関みやぜき村大胡宿から東に向かう大間々おおまま道に沿う。村の北部を山上やまかみ道が通る。小字能万寺のうまんじは能満虚空蔵菩薩を祀った赤城信仰に連なる寺院跡であろう。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方一〇三石余・畑方三〇石余。明和四年(一七六八)から幕府領であったが天明四年(一七八四)山城淀藩領となる。同六年の淀藩領勢多郡郷村高帳(国立史料館蔵)によると高二七二石余。

越村
こしむら

[現在地名]中野市甲 越

高社こうしや山麓にあって赤岩あかいわ深沢新田ふかさわしんでんの両村に挟まれ、南西夜間瀬よませ川を控えた地である。

初見は慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳に高二五三石二斗五升とみえ、次いで同九年の信州四郡草山年貢帳で草山年貢三石を松平忠輝の家臣松平庄右衛門宗世に納めている。

越村
こしむら

[現在地名]明日香村大字越

平田ひらた村西部、高取川左岸に立地する。当村西北に小字越峠こしとうげがあり、「万葉集」の越智野おちの(現高取町大字越智)に通ずる。川島皇子越智野に葬る時の万葉歌では「越野」を「乎知野」と読んでおり、越はオチと読んだ可能性もある。慶長・元和・寛永の各郷帳とも「こし村」と記す。文禄検地村高は一九二石。

越村
こえむら

[現在地名]宇目町小野市おのいち 越野こえの

宮園みやぞの村の南西に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高一九石余・畑高一八石余、宇目郷に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報