上庄村(読み)かみしようむら

日本歴史地名大系 「上庄村」の解説

上庄村
かみしようむら

[現在地名]倉敷市上東じようとう

東庄ひがししよう村の北に位置する。正保郷帳では東庄村の枝村として上村とある。元禄期(一六八八―一七〇四)より独立し元禄備中国絵図では上庄村高九四二石余、元禄郷帳では丹波亀山藩領(井上氏)、正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高九四三石余で幕府領。以後明治に至るまで同領(備中村鑑)。「岡山県郡治誌」によれば、幕末には西組・東組に分れており、西組は明治九年(一八七六)東庄村と合併して上東村となる。

東庄村・上庄村・下庄村・西尾村(東谷を除く)の産土神八幡神社(若宮八幡宮)がある。もとは山地やまじ村の若宮わかみや神社が産土神であったが、慶長年間(一五九六―一六一五)に庭瀬藩主戸川氏が村民日蓮宗に改宗させたため、若宮神社は山地村のみの産土神とされ、別に若宮神社を勧請して八幡神社に合祀して産土神としたと伝える。

上庄村
かみしようむら

[現在地名]土庄町上庄

嶮岨けんそ山に源を発する伝法でんぽう川の流域に位置する。近世九郷時代の上庄郷であるが、上庄郷は当村一村のみで構成する。村内北山きたやま村には年寄・組頭などの村役人は存在したが、他郷のように枝村ではなく、年貢面そのほか上庄村として処理され、独立することはなかった。上庄郷庄屋を勤めた紀氏は、肥土ひと庄庄官紀氏の子孫と伝える。延宝六年(一六七八)紀則久の著した「紀氏旧記」に「小豆島の本庄と申伝へたが是でござる、それによりその上の方に而上庄とは村名に成つたと申伝へてござる(中略)氏神様の別当・神主此方村にはござる」とある。慶長一〇年(一六〇五)の検地時は土庄組のうち里肥土さとひと村三五六石余に含まれた(小豆島全図)

上庄村
かみしようむら

[現在地名]大原町中町なかまち

東作誌」によれば辻堂つじどう村の南に位置し、西は下町しもまち村。古く讃甘さのも庄に属し、上庄村は高一千四五九石余の大村であったが、宇喜多氏時代に辻堂村・下町村に分村し、慶長九年(一六〇四)辻堂村より新たに上庄村として分村した。正保郷帳では辻堂村の内。寛政四年(一七九二)の美作国中領地分に上庄村とある。

上庄村
かみじようむら

[現在地名]安心院町しよう

庄村の南東津房つぶさ川の中流域に位置する。南は戸方とかた村。近世の領主変遷妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二四六石余、人数五二、百姓九(うち庄屋二)・名子二、牛八・馬三。天保四年(一八三三)中津藩郷村高帳下書によると高一九一石余、うち五石余が出高、二八石余が永荒。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報