三箇村(読み)さんがむら

日本歴史地名大系 「三箇村」の解説

三箇村
さんがむら

[現在地名]大東市栄和えいわ町・おうぎ町・末広すえひろ町・三箇一―三丁目・同五―六丁目・津の辺つのべ町・あけぼの町・三住みすみ町・しん町・大野おおの一―二丁目・さいわい町・南津の辺みなみつのべ町・住道すみのどう一―二丁目・はま町・赤井あかい二丁目・三洋さんよう町・灰塚はいづか一―二丁目・同四丁目・御供田ごくでん一丁目・谷川たにがわ一丁目

中世の記録には三ケ(後出)、三个(「経覚私要鈔」文明三年七月二〇日条)などとも記され、江戸時代の郷村帳類でも三ケと記される場合が多い。旧深野ふこの池中の西寄りに位置し、現市域の中央部を長く南北に占める。地名は深野池のなかの三つの島よりなるため(大阪府全志)であるが、数ヵ所の飛地からなるので境域は複雑で、「河内志」にいう属邑七のうち、津の辺・大畑おおばたけ西の口にしのくち江の口えのくち大箇だいか上三箇かみさんが下野しもの押廻おしまわしを下三箇とする。しかし津の辺は権現ごんげん川、押廻は吉田よした川による沖積地で陸続きであり、下野のうち大野も対岸の耕地であり、三つの島とは大畑・西の口・江の口、大箇、下野であろう。地名は久安元年(一一四五)星田ほしだ(現交野市)にあった小松こまつ寺の修二月会勤行に寄付した諸郷のなかに「三箇」とみえる(「河内国小松寺縁起」所引の近衛天皇綸旨。ただしこの文書は検討を要する)。確実な史料では年月日不詳(鎌倉初期)の久我家領目録(久我家文書)に「三ケ庄」とみえるのが早い例であろう。久我家領三ケ庄については他にみえず詳細は不明。室町時代には京都相国寺領三箇庄があり、「蔭涼軒日録」寛正二年(一四六一)一一月二六日条に「当院領河内三ケ庄公文三ケ并中訴論之事、以各申状伺之」とあり、「鹿苑日録」明応八年(一四九九)八月一七日条には「昔院領河内三箇庄毎年必以出官為上使也」とみえる。のち三箇城主となる土豪三ケ(三箇)氏が公文として登場している。

三箇村
さんがむら

[現在地名]菖蒲町三箇

ほし川の左岸、新堀にいぼり村の南東に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。三ヶ村とも記した。地名は明応年間(一四九二―一五〇一)つじ寺中じちゆう大蔵おおくらの三ヵ所を合せて一村としたことによるという(風土記稿)。昭和三九年(一九六四)に島根県大田おおだ鶴岡南つるおかみなみ八幡宮境内の鉄塔内から発見された大永二年(一五二二)七月二〇日銘の経筒筒身に「武州崎西郡大蔵住本願春海」などと陰刻されていた。大蔵は野与党大蔵氏の本貫地である。大蔵氏は野与基永の曾孫行高を祖とし(「野与党系図」諸家系図纂)、曾孫二郎兵衛尉時季の代から「吾妻鏡」などで一族の動向が知られる。宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で敗れた三浦氏与党探索のため、武蔵国に派遣された大倉(大蔵)次郎兵衛は時季にあたる(「吾妻鏡」同年六月六日条)

三箇村
さんがむら

[現在地名]藤岡町三箇

町域の北端、木瀬きせ川の上流域に位置する。集落は上切・中切・下切の三つの島からなる。縄文時代の訳地わけち遺跡・中畑なかはた遺跡がある。また、字訳地と管平すげだいらに各々一基の宝篋印塔がある。寛永一二年(一六三五)時には幕府領、元禄一四年(一七〇一)時には旗本久永信豊領で、以後明治まで続く。

曹洞宗永平寺末の祐克山慶昌けいしよう寺は元亀二年(一五七一)天桂良貞の開基という。

三箇村
さんがむら

[現在地名]美野里町三箇

園部そのべ川の左岸に位置し、北は鶴田つるた村。中世は小鶴こづる庄、のち佐竹氏の支配下に入る。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となり、正保二年(一六四五)天領、寛文一一年(一六七一)旗本内藤氏知行地になる。のち一部は天領、他は旗本領となり、幕末は天領一二・四石余、旗本領は水野氏七一・一石余、松平・伊東・長田氏が各四八・二石余、河野・本多・奥山氏が各一八・四石余、土屋氏六・二石余(各村旧高簿)

元禄一一年(一六九八)の常陸国茨城郡三ケ村差出シ帳(清水家文書)に「常陸国茨城郡三ケ村江戸迄陸道弐拾四里、舟道五拾四里、小川村河岸壱里」とみえ、元禄郷帳にも「三ケ村」と記され、天保郷帳に「三箇村」とある。

三箇村
さんがむら

[現在地名]矢部町三箇

間谷まんたに山の南麓にあり、東は猿渡さわたり村、西は葛原くずばる村に接する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「たにかしらの分 二貫文」「ひなたの分 二貫文」とあるのは、当村の小村谷頭・日向をさす。慶長国絵図に「三ケ村」とみえる。矢部手永に属し、「国誌」は谷頭村・日向村・赤木村・松尾村・昆布志木(小伏木)村などの小村を記す。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑に「三ケ村」とあり、高一七三石三斗余、田畝一町五反二畝余・畑畝一七町二反二畝・苅畑七反一畝、竈数六七・男一五〇・女一四二、牛六二・馬五二。

三箇村
さんがむら

[現在地名]一の宮町三野さんの

北は阿蘇外輪山の原野、南は火口原で湿地となり、外輪山近くをくろ川が西流する。東は古閑こが村・野中のなか村、西は手野ての村、南は宮地みやじ村と接する。慶長国絵図に「三ケ村」とあり、近世には坂梨手永に属し、「国誌」に「山下村古閑村等ノ小村アリ」とあるが、古閑村は同時に高一五石の独立村としても記される。

三箇村
さんがむら

[現在地名]袖ケ浦市三箇

高谷たかや村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に三ヶ村とみえ、高六三九石。元禄郷帳では高六六二石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高八二三石余で家数一〇三、幕府領と旗本水上・三島・大沢・大河内の四家領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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