一本木村(読み)いつぽんぎむら

日本歴史地名大系 「一本木村」の解説

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]今別町大泊おおどまり奥平部おくたいらべ砂ヶ森すながもり袰月ほろづき村元むらもと山崎やまさき

東は石崎いしざき(現平舘村)、南は鍋田なべた村、西は今別いまべつ川で今別村と接し、北は津軽海峡に面する。中心の村元は西端にあり、東へ支村の山崎・大泊・袰月・砂ヶ森・奥平部・綱不知つなしらずと連なる。一本木は総称でもあり、本村の村元を一本木村ともよんだ。後ろは山、前は海に急崖をなすため生産力が低い。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「綱不知つなしらす」「をこたらへ 」(奥平部)両翼突ほろつき(袰月)の名がある。正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図の海岸に「ほろつきの間西風わるく」とみえるほか、唯一の通路である松前街道には一里塚の印が三ヵ所みられ、高野こうや崎と袰月の間に番所と思われる舎屋が記される。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]亀田かめだ郡大野町字一本木・字萩野はぎの

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。大野川の最下流域左岸から久根別くねべつ川右岸までを占める。昭和二五年(一九五〇)まで同川は下流部で西に転じて大野川に合流しており、久根別川を挟んで南方海岸部は上磯かみいそ(現上磯町)。近世は東在大野村の枝村で、天保郷帳に一本木郷とみえる。

地名の由来は寛政一一年(一七九九)の「蝦夷紀行」に「一本木ハアカタマノ木原中に一本あるゆへ」とみえる。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]喜連川町穂積ほづみ

船沢ふなざわ村の南東、川の支流いわ川沿いに立地する山間の小村。地名は旧本村のたいらに欅の巨木が一本四方を圧するばかりに茂っていたことによると伝える(→大滑村。矢野姓の家が多く、「那須記」に矢野弥七郎資義の名があり、旧家には高雄家がある。那須郡に属する。延宝六年(一六七八)那須氏により検地が行われ、検地帳(高雄一正文書)が伝わる。高一〇一石余。貞享四年(一六八七)烏山藩廃絶により上知され、元禄郷帳では幕府領(幕末に至る)。天保期(一八三〇―四四)の家数六(改革組合村)。幕府領山村の疲弊は宝暦―明和(一七五一―七二)から天明(一七八一―八九)にかけて急迫するが、下野国那須郡小郷野こごうの村・一本木村などで、持主のなくなった荒地を起返すため江戸町人のうちから希望者を公募した記録がある(→小郷野村

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]中野市大字一本木

北は若宮わかみや、南は中野なかの松川まつかわ、東は竹原たけはら、西は吉田よしだの各村と境している。

古来笠原北条かさはらきたじようのうちで、初見は天正七年(一五七九)正月の下宮春宮造宮帳で、玉垣一〇間、合五貫二〇〇文のところ正物五〇〇文を他の五ヵ村とともに分担している。同一〇年八月には、上杉景勝が一本木・灰塚はいづかを窪島日向守に安堵している(「上杉景勝安堵状案」上杉年譜)

村高は慶長七年(一六〇二)森忠政検地での二九一石八斗七升二合が、元和七年(一六二一)福島正則検地では一六八石に急減している。これは中野・松川と本村との境界をなす旧夜間瀬よませ川支流の氾濫によるものと考えられ、灰塚と一連の水災によるものである。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]富山市一本木

常願寺川左岸にあり、連年同川の氾濫に悩んだ水損地。北は中野新なかのしん村。正保郷帳では高一一七石余、田方四町三反余・畑方三町五反余、新田高八八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五六石、免四ツ、小物成は野役一匁・鮭役一八匁、明暦二年(一六五六)の新田高三石があった(三箇国高物成帳)。のち櫂役三匁が加わる(「針原組手帳」杉木家文書)。水害により天和二年(一六八二)六七石、元禄七年(一六九四)六六石の検地引高があり、天保九年(一八三八)の四一石余などの手上高により同一一年の打銀高一八五石、免四ツ(「高免帳」同文書)。所属組は町袋まちぶくろ村と同じ。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]三郷市新和しんわ、千葉県松戸市主水新田もんとしんでん

大膳だいぜん村の南に位置し、南は長戸呂ながとろ村。東は江戸川に臨む。田園簿に記載がなく、もとは高須たかす村の内と伝え(風土記稿)、元禄郷帳には「長戸呂村ノ内」として一本木村とみえる。天保郷帳では一村で高付され、高三〇石余。検地は元禄八年(一六九五)の武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、延享元年(一七四四)には流作場検地が行われたという(「風土記稿」など)。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(「風土記稿」・改革組合取調書など)

一本木村
いつぽうぎむら

[現在地名]桐生市広沢町ひろさわちよう七丁目

桐生川が渡良瀬川に流れ込む地点に位置する。西は下広沢しもひろさわ村、南は吉沢よしざわ(現太田市)、渡良瀬川対岸東は下野国足利あしかが小俣おまた(現栃木県足利市)。古くは当村と上・中・下広沢村で一村で、慶長三年(一五九八)の桐生領検地で分村したと伝え、寛文郷帳では高三〇石余、畑方のみ、館林藩領。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では高六九石余、旗本大久保領。近世後期の御改革組合村高帳でも同高、同氏領、家数三五。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]川島町一本木

北園部きたそのべ村の東に位置し、集落は旧荒川筋の自然堤防上に東西に長く発達する。近世にはいわゆる小見野おみの一〇ヵ村のうち。天正一八年(一五九〇)二月一四日、小田原北条氏は年貢未納のまま岩付いわつき領一本木宿に欠落した戸守ともり郷百姓の召還を、同宿の領主代官に命じている(「北条家印判状」愛知県大口立彦氏所蔵文書)。田園簿では田高一三〇石余・畑高六二石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二一四石余、反別は田一四町四反余・畑一〇町四反余。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]本庄市小和瀬こわぜ

榛沢はんざわ郡に所属。小和瀬村の枝郷。利根川南岸の自然堤防上に位置し、西側をほぼ北から南に備前渠びぜんきよ用水が流下する。東は宮戸みやど村、南は牧西もくさい村、北から西は小和瀬村。「風土記稿」に民家なしと記され、一本木河岸がある。正保二年(一六四五)の本庄町外石高等領知図(中原家蔵)に村名がみえるが、家数は小和瀬村に入るとある。田園簿の小和瀬村のうちに旗本三枝領七石があり、これがのち枝郷一本木村として分村したとされる(風土記稿)。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では小和瀬村枝郷と注記され高七石、幕府領。

一本木村
いつぽんぎむら

[現在地名]鹿角市十和田大湯とわだおおゆ 一本木

南西に流れる大湯川下流域左岸台地上に位置。大湯―花輪はなわを貫く道が通る。現一本木平いつぽんぎだいらに縄文期の遺跡がある。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高八七石三斗余でうち蔵分四七石三斗余、民戸八軒、馬一六匹。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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