喜連川町(読み)きつれがわまち

日本歴史地名大系 「喜連川町」の解説

喜連川町
きつれがわまち

[現在地名]喜連川町喜連川

現喜連川町の南部中央、あら川流域に立地し、奥州街道が通る。中世には喜連川塩谷氏の本拠地として、近世には同街道の宿として、また喜連川氏五千石の居館所在地として町の発展をみた。慶安郷帳には喜連川村、元禄郷帳・天保郷帳には喜連川町とある。

地名は中世の諸書・史料には、喜連川のほか狐川(河)・喜烈川・来連川などの表記で登場する。狐川は荒川の古名と伝え、「夫木抄」に藤原為家の歌「とにかくに人の心のきつね川影あらはれむ時をこそまて」がある。また文明一九年(一四八七)当地を訪れた京都聖護院門跡准后道興は「廻国雑記」に、「きつね川といへるさとに行暮てよめる」として「里人のともす火かけもくるゝ夜によそめあやしき狐川哉」と詠んだ。なお「義経記」に、源頼朝の挙兵を聞いた源義経が奥州より駆け付ける途次を記して「きづかはを打過ぎて」とある「きづかは」は当地のこととされる。喜烈川は天文一四年(一五四五)と推定される一〇月一〇日の宇都宮俊綱感状写(小田部庄右衛門氏所蔵文書)など、来烈川は年未詳一〇月一二日の足利政氏書状写(那須文書)などにみえるが、いずれも当て字であろう。喜連川の表記は天文五年一〇月七日の二階堂続義充行状(石井文書)に所見するほか、戦国期までの用例としては最も多い。狐川のいわれは平安末の近衛天皇の時代、那須九尾狐が暴れていた頃、荒川の上流に老大狐が生息しその影を荒川に映したため荒川を狐川とよぶようになったと伝えられている。また、荒川とうち川が葛城かつらぎ村の北で合流するため、「流れ来る川」の縁により来連川とよんだともいう(来連川町誌)

〔中世〕

塩谷五郎惟広は義経に属して一ノ谷・屋島合戦で功をあげ、塩谷郡において三千町を給せられ、当地大倉おおくらさきに「大蔵之城」を築き(「塩谷系図」関喜作蔵)、領内を塩屋しおのやの里と称したと伝える。室町―戦国期の塩谷氏の喜連川城(倉ヶ崎城とも)跡は喜連川の町並に北西から突き出した半島状の丘陵先端にあり、東西約二一六メートル・南北約一〇八メートル、面積約三・八ヘクタール。

喜連川町
きつれがわまち

面積:七四・五三平方キロ

県中央よりやや北東部寄り、塩谷郡域の東端部に位置する。東西約一〇キロ・南北約一三キロでほぼ菱形をなし、菱辺の北から東は大田原市・那須郡小川おがわ町、南東辺は同郡南那須町、南西辺は氏家うじいえ町、北西辺は矢板市に接する。南西辺は塩那えんな丘陵線で那珂、小貝こかい五行ごぎよう両水系の分界、以東数条の丘陵の谷間をあら川・うち川・川・いわ川が流れる。江川は矢板市東部に発し、喜連川町・南那須町を南東流、喜連川町で西江川、南那須町で岩川を合せ、那須郡烏山からすやま町で荒川に注ぐ。那珂川水系に属し、流路延長三〇キロ、流域面積約五八平方キロ。荒川と内川が合流するまでの地域は、大倉おおくらさき丘陵を挟んで盆地状をなし、谷列段丘上一帯に掘抜井戸がみられ、豊富な地下水を得ている。近世の塩谷郡喜連川町はここに開け、古河公方の流れをくむ喜連川氏五千石の居館下、奥州街道の宿場町として栄えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報