ボシュエ(英語表記)Jacques-Bénigne Bossuet

精選版 日本国語大辞典 「ボシュエ」の意味・読み・例文・類語

ボシュエ

(Jacques Bénigne Bossuet ジャック=ベニニュ━) フランス神学者、説教家、歴史家。ルイ一四世の王子の教育掛となる。王権神授説を説き、フランス教会の自由と絶対王制を弁護した。著「世界史論」など。(一六二七‐一七〇四

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デジタル大辞泉 「ボシュエ」の意味・読み・例文・類語

ボシュエ(Jacques Bénigne Bossuet)

[1627~1704]フランスの神学者・説教家・歴史家。イエズス会で学び、1670年にルイ14世の王子の教師、81年にモーの司教となる。王権神授説を説くとともに、フランス教会の自由を主張した。著「世界史論」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「ボシュエ」の意味・わかりやすい解説

ボシュエ
Jacques-Bénigne Bossuet
生没年:1627-1704

フランスの宗教家。ディジョンの名家に生まれ,幼い頃から聖職に入る。1652年にメッスの司祭に任じられ,バンサン・ド・ポールに親しむ。59年からパリに定住して名説教で世評を高からしめた。70年に王太子の師傅に選ばれ,10年間その教育を担当した後,81年にモーの司教となる。この頃から教会の真の主宰者の地位を占め,国王教皇の間を斡旋し,ナントの王令の廃止に先立ちプロテスタンティズムを否定する論陣を張り,フェヌロン静寂主義を論破し,演劇の反道徳性を糾弾するなど,きわめて活動的な生涯を送る。《説教集》と《追悼演説集》の文学的価値は高く,前者では1662年の〈死について〉,後者では70年のオルレアン公妃に献げた演説は,同じように死についての省察を含み,格調の高い雄弁はそのまま古典主義の典型となる文体で,17世紀を代表する散文に数えられる。王太子教育の成果である《世界史叙説》(1681)は,世界は神の摂理によって永久普遍に支配されるとする史観に立ち,シャトーブリアン等に深い影響を及ぼした。プロテスタントとの宗教論争の主著である《プロテスタント教会変異史》(1688)は,綿密な考証をふまえて史書としての価値を失わない。《喜劇に関する箴言と省察》(1694)においては,よき慣習を害するものとして喜劇を攻撃するが,別のところで悲劇もまた恋愛の情念を描くゆえに否定する。その演劇批判はジャンセニスムに通じるものがあるが,新旧論争の古代派の領袖でもある自身の文学観にもとづき,古代文学の崇高性を追求すべしという主張と切り離せない。ギリシア悲劇のフランス化は許容しているのである。比較文学者P.アザールはボシュエを去りゆく古典主義時代の最後の人物で,新しい時代の到来を拒否する悲しい象徴とみなすが,彼の強烈な精神は最後まで保たれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボシュエ」の意味・わかりやすい解説

ボシュエ
ぼしゅえ
Jacques Bénigne Bossuet
(1627―1704)

フランスの神学者、歴史家。神権王制の理論を大成した聖職者。弔辞文学の独創者でもある。ディジョンで誕生。パリに出て神学を修める。32歳で司教となり、以後説教家として声望を博した。アンリエット・ダングルテールHenriette d'Angleterre(1609―1669)、ル・テリエLe Tellier(1603―1685)、コンデ公(ルイ2世LouisⅡ de Bourbon。1621―1686)らへの弔辞で知られる。1670年ルイ14世の王太子の師傅(しふ)となる。『世界史論』Discours sur l'histoire universelle(1681)により、普遍的な摂理の軌道に明滅する神と人間の交流を描き、創造者から祝福された王権の正統性を立証し、王を神の地上の代行とみる、いわゆる「王権神授説」を補強。ブルボン王朝の公的な政治理論を確立した。さらに1688年『プロテスタント教会変遷史』を著し、カトリック教会擁護のための論陣を張る一方、フェヌロンの静寂主義(キエティスム)の神秘論をも厳しく批評した。晩年はモーの司教として、健筆を振るい、神学の著述に従った。文体は荘重で、格調に富み、古典主義を代表する文人の評が高い。

[金澤 誠 2017年12月12日]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボシュエ」の意味・わかりやすい解説

ボシュエ
Bossuet, Jacques Bénigne

[生]1627.9.27. ディジョン
[没]1704.4.12. パリ
フランスの聖職者,説教家,神学者。 1642~52年パリのナバル学院で学び,バンサンの影響下に司祭となった。 52~59年メッツで対プロテスタント論争を展開。パリに戻って特に追悼説教で文学的盛名を高め,69年コンドン司教,71年皇太子傅育官となり,アカデミー・フランセーズに入った。 81年から死ぬまでモー司教をつとめた。ライプニッツと親交があった。 81年聖職者総会でルイ 14世のローマとの離教的対立を回避しようとしたが,82年4ヵ条を起草し,王への服従を貫いた。反プロテスタント運動は 85年ナント勅令破棄をもたらしたが,それに続く迫害に反対し,王の政策を支持。 94年頃より静寂主義の代表者フェヌロンと対立し,ガリア主義の自由を守った。神学者としての彼は,教父に関する有数の学者であり,カトリック教理の擁護に努めた。主著は皇太子のために書いた『世界史叙説』 Discours sur l'histoire universelle (1681) ,『聖書の言葉より導出せる政治論』 Politique tirée de l'écriture sainte (6巻,1709) 。さらに『プロテスタンティズム変遷史』L'histoire des variations des églises protestantesは当時評判の書であった (1688) 。

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百科事典マイペディア 「ボシュエ」の意味・わかりやすい解説

ボシュエ

フランスの聖職者。雄弁で知られ,宮廷に招かれて多くの説教や追悼演説を残した。1670年王太子の師傅(しふ),1681年モーの司教となり,華麗かつ重厚な説教から〈モーの鷲(わし)〉と呼ばれた。1682年聖職者会議のガリカニスム宣言で重要な役割を果たし,プロテスタントやフェヌロンとの論争も名高い。新旧論争では古代派の領袖。主著《世界史叙説》(1681年),《プロテスタント教会変異史》(1688年),《喜劇に関する箴言と省察》(1694年)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボシュエ」の解説

ボシュエ
Jacques-Bénigne Bossuet

1627~1704

フランスの司教。多くの優れた説教,追悼演説を残すほか,1670年,王太子の教育係に任じられ『世界史論』『聖書による政治学』などで神学的歴史・政治理論を展開。プロテスタントやフェヌロンとの論争も重要である。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ボシュエ」の解説

ボシュエ
Jacques Bénigne Bossuet

1627〜1704
フランスの司教・神学者
雄弁な説教家で,ルイ14世に王者の義務を説き,王太子の師として『世界史論』『聖書の教訓による政治学』などを書き,王権神授説を説いて絶対主義の基礎とした。

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世界大百科事典(旧版)内のボシュエの言及

【ローマ没落史観】より

…イタリアの現状救済を第一義としてローマ盛衰原因論を考えたマキアベリは,ポリュビオスの政体循環論を継承しつつ,共和政体をよしとし,カエサル以後の独裁を堕落形態とした。 なおキリスト教的史観はルネサンス以後完全に払拭されたわけではなく,ボシュエの《万国史論》は,私利と暴力の支配などさまざまなローマ没落原因を考察しながらも,なおアウグスティヌス的摂理史観を基幹としていた。啓蒙主義時代に入り,モンテスキューの《ローマ人盛衰原因論》は軍隊の力の増大と,元老院と衆愚に堕した人民の力の逆転に没落の主因を求めた。…

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