ベルサイユ宮殿
べるさいゆきゅうでん
Palais de Versailles
パリの南西およそ20キロメートルのベルサイユにあるブルボン王家の離宮。太陽王ルイ14世の宮廷として造営されたフランスの絶対主義王制を象徴する建造物。フランス国王ルイ14世にとり、宮廷を豪華に装い、権力・財力を内外に誇示することは政治的にも重要な意味をもつものであったが、「われは国家なり」と豪語した彼の雄渾(ゆうこん)な意図が総合的に具現されたのがベルサイユ宮殿であった。この建造物の中核をなしているのは、父王ルイ13世がルメルシエに命じて1626年に建立させた狩猟用別荘である。ルイ14世はまずこの中核部に連なる翼屋(よくおく)の増築をルイ・ルボーに求めた(1661)。しかし、庭園に面した正面の設計を終えただけでルボーは死去し、工事はアルドゥアン・マンサールに引き継がれた(1679)。ルボーの設計を踏襲しながら翼屋が左右に拡張され、内外部の工事がすべて完了するのはルイ・フィリップの治世(1830~48)になってからである。
庭園側の正面は古典的デザインで構成されるが、中央部と両端部はやや前方に張り出した列柱で外観にアクセントを与え、上端部には石材彫刻を並べてバロック的な曲折をみせる。屋内の中心部は有名な「鏡の間」で占められ、その両端には「戦争の間」と「平和の間」が配される。国政の審議に使われた「鏡の間」はマンサールが設計し、ルブランが装飾にあたった。金泥を多く用いたバロック風の壁面装飾を古典的モチーフの片蓋(かたぶた)柱が力強く分節し、長大な円筒穹窿(きゅうりゅう)を支えている。全長550メートル、1万人を収容するといわれるベルサイユ宮殿は、国王を中心とする宮廷生活の舞台装置を思わせる。ル・ノートルの設計になる庭園は宮殿の空間的延長といえるほどに、この建築と密接に関連しており、群像で装われた多くの池泉やルイ14世の大トリアノン(1688~91)、ルイ15世の小トリアノン(1761~68)、マリ・アントアネットのアモー(小村落、1782~86)などの建築が、自然の環境を背景にして、ルイ王朝の華麗な様式美を今日に伝えている。
今日では、宮殿中央部、礼拝堂、劇場などを除いて、南北両翼部には豊富な美術品が展示され、庭園ともども歴史美術館として一般に公開されている。1979年に宮殿、庭園ともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[濱谷勝也]
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ベルサイユ宮殿
ベルサイユきゅうでん
Palais de Versailles
パリ南西のベルサイユにあるルイ王朝の大宮殿。 1682~1789年フランス国王の座所として,政治の中心であった。初めルイ 13世の狩猟用の離宮として 1624~26年に建てられたが,ルイ 14世が 1661~70年に建築家 L.ル・ボーに命じて中庭側の両翼廊と庭園に面したファサードを加えた。さらに J.マンサールが 1678年から南北に長大な翼部を加え,また3本の放射状街路を含めた前庭のアプローチ,オランジュリー,グラン・トリアノン,鏡の間などを設計。宮殿内部の重要な室内装飾は宰相 J.コルベール,主任宮廷画家 C.ル・ブランの総指揮のもとで行なわれ,豪華絢爛たる後期バロックの装飾美術 (→ルイ 14世様式 ) を展開した。特に王と王妃の居室部や鏡の間は華美をきわめた。壮大な整形庭園は 1660年代に A.ル・ノートルが計画。ルイ 15世の時代には A.ガブリエルのもとロココ様式による増築や改修が行なわれ,さらに 18世紀には古典様式の室内装飾が加えられた。ベルサイユ宮殿およびベルサイユ宮庭園は計画の大きさはもとより,費やした財力と労力においても空前絶後の規模を呈し,当時のヨーロッパの宮殿建築の規範となった。 1979年庭園とともに世界遺産の文化遺産に登録。
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ベルサイユきゅうでん【ベルサイユ宮殿】
フランスの首都パリの郊外、南西22kmのベルサイユ(Versailles)にある宮殿。フランス王ルイ14世(1638~1715年)が1682年に建設したバロック様式の宮殿である。宮殿の主要な部分の設計はマンサール(Jules Hardouin-Mansartr、1646~1708年)が、内装をル・ブラン(Charles Le Brun、1619~1690年)が担当し、庭園はアンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre、1613~1700年)によって、約50年の歳月と莫大な費用を投じてつくられた。フランス絶対王政の最盛期に建てられたシンボル的な宮殿で、その豪華さと完成度は当時から評判となり、各国の宮殿建築に模倣された。宮殿の中の鏡の間は、第一次大戦後の対独講和条約(ベルサイユ条約)が調印された場所である。このほか宮殿内には、グランタパルトマン、王の大広間、王妃の広間、オペラの間など多数の見どころがある。
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「ベルサイユ宮殿」の意味・わかりやすい解説
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世界遺産情報
「ベルサイユ宮殿」の解説
ベルサイユ宮殿
ベルサイユ宮殿は、パリから南西20kmほどのパリ郊外にあります。贅を尽くしたブルボン王朝の象徴ともいえるこの宮殿は、太陽王ルイ14世の「有史以来、最も大きく豪華な宮殿を建てよ」の言葉のもとに、17世紀から18世紀にかけて約50年の歳月と莫大な費用を費やして造られました。その広大な庭園と贅を尽くした城館はヨーロッパ随一の豪華さです。1789年の大革命までフランスの政治、文化、芸術の中心となっており、今でもグランタパルトマン、鏡の間、オペラの間など華やかだったフランス宮廷文化の黄金期をしのぶことができます。
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デジタル大辞泉
「ベルサイユ宮殿」の意味・読み・例文・類語
ベルサイユ‐きゅうでん【ベルサイユ宮殿】
《Palais de Versailles》ベルサイユにある宮殿。ルイ14世がルイ13世の別荘を拡張し宮殿として建設。その後も増改築を重ねた。豪華な建築物と広大な庭園は、17、8世紀フランスのバロック建築・美術の集大成といわれ、その後の多くの宮殿に模倣されている。1979年、世界遺産(文化遺産)に登録された。
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ベルサイユ‐きゅうでん【ベルサイユ宮殿】
ベルサイユにある宮殿。ルイ一三世が着手、ルイ一四世時代に完成し、一六八二~一七一五年、王宮となった。豪華な室内装飾と広大な庭園は各国宮殿の範とされた。
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ベルサイユきゅうでん【ベルサイユ宮殿】
パリ南西郊ベルサイユにある,ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿château,その背後に広がる庭園,離宮グラン・トリアノン,プチ・トリアノンなどからなる。 騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は,郊外の森に囲まれた田園地帯に,ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で,まったく新しいタイプの宮殿,そしてそれに付属する都市を構想し,その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。
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世界大百科事典内のベルサイユ宮殿の言及
【宮廷】より
…強力な王権を前にしては,有力貴族も高位聖職者も,競って宮廷に馳せ参じ国王の恩恵にあずからざるをえない。ルイ14世によるベルサイユ宮殿の建造は,まさにこの新しい時代を象徴するものであった。ルイ14世は1682年ベルサイユに移り住むが,その盛時には1000人を超す宮廷貴族や高位聖職者が,この広大な宮殿に居室を与えられ,その従者の数は4000人に及んだという。…
【宮殿】より
…こうした宮殿の拡張は,王権の拡大にみごとなまでに対応していた。
[宮殿都市]
近世の宮殿にとって画期的なできごととなったのは,太陽王ルイ14世によるベルサイユ宮殿の造営である。1661年に起工され,その後建設総監J.アルドゥアン・マンサールの指揮によって遂行されたこの事業は,大都市パリの混乱を離れて新しい理想的な宮廷都市を建設し,その中心に宮殿を据えるという壮大な計画であった。…
【庭園】より
…彼の出世作は,マザランのもとで大蔵卿をつとめたフーケの城館,ボー・ル・ビコントVaux‐le‐Vicomteの庭園で,それは南北1.2km,東西0.6kmの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり,ル・ノートルは有名なベルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ここでは宮殿中央の〈鏡の間〉前のテラスから南へと〈王の並木道〉が延び,その先がカナールになって,それがはるか天と地の境にまで延びていっているように見える。…
【尿】より
…しかし,レンブラントに,立って放尿する男女の絵があるように,外国でもあまり事情は変わらない。便所がないベルサイユ宮殿では,ルイ王朝期のフランス人形のような衣装をまとった美女たちも,立ったまま便器を用いることがあった。メキシコの男はしゃがみ,女が立って放尿するとされるが(G.ラムシオ《海陸紀行全集》),古代エジプトでも同様である(ヘロドトス《歴史》巻二)。…
【バロック美術】より
…1627年にイタリアから帰ったブーエがルイ13世の宮廷画家となった時期が,フランスにおける公的芸術の始まりといえよう。また,ルイ14世の即位(1643)後に,王権の示威であるベルサイユ宮殿の造営が国家的事業として開始される。この間のフランス・バロックのもっとも重要な特色は,建築,彫刻,作画,工芸,造園の総合的演出のもとに,壮大と秩序と豪奢を追求したことである。…
【フランス美術】より
…ヨーロッパ中がバロックの波に覆われた17世紀において,フランスだけが厳しい古典主義美術を完成させたという事実が,そのことを雄弁に物語っている。ベルサイユ宮殿の全体構想の雄大さは,たしかにバロック的感覚に通ずるものがあるが,有名な〈鏡の間〉のある庭に面した正面部のみごとに秩序づけられた構成は,ボロミーニやペッペルマンの果てしなく増殖するようなダイナミックな正面部とはまったく異質のものである。ルイ14世の時代に,バロックの王者としてヨーロッパ中に君臨していたイタリアの大家ベルニーニを招いてルーブル宮殿東正面の設計を依頼しながら,結局そのせっかくのベルニーニの案を採用せず,古典主義的なペローの列柱構成を実現させたのも,同様の合理的秩序感覚の表れにほかならない。…
【ル・ノートル】より
…軸線,左右対称性に加えて庭園全体の透視図法的効果,円や正方形あるいは円錐や角柱状に整えられた庭園構築物,植栽などが,この庭園を特徴づけている。この成功に引き続き彼はベルサイユ宮殿の庭園を手がけることになり,大運河,噴水といったバロック的演出効果をともなった大庭園をつくり上げる。王室造園家として他にも,フォンテンブロー,マントノン,サン・クルーなどの庭園設計に携わった。…
※「ベルサイユ宮殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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