ヘンリー[8世](読み)ヘンリー

百科事典マイペディア 「ヘンリー[8世]」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー[8世]【ヘンリー】

英国王(在位1509年―1547年)。ヘンリー7世の次男。熱心な旧教徒であったが,アン・ブーリンとの恋愛や王妃との離婚問題のこじれから教皇と対立。1534年国王至上法を発して自ら英国国教会の首長となり,ローマ教会から離脱し,修道院を解散してその財産を没収した。妃を6人も替え,側近の多くを処刑するなど性格は残忍であったが,英国絶対主義国家の確立に寄与した。エリザベス1世の父。
→関連項目青髯伝説アングリカン・チャーチイギリスエドワード[6世]エリザベス[1世]キャサリン[アラゴンの]クランマークレメンス[7世]クロムウェルサマセット公スケルトンチューダー朝ホルバイン[一族]メアリー[1世]モア

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世界大百科事典 第2版 「ヘンリー[8世]」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー[8世]【Henry VIII】

1491‐1547
チューダー朝第2代のイングランド王。在位1509‐47年。ヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの次子。即位後まもなくローマ教皇特免を得て亡兄の妻キャサリン・オブ・アラゴン(のちのメアリー1世の母)と結婚。対仏同盟に加わって大陸出兵スプールの戦で勝ち,北イギリスのフロッドンの戦(1513)ではスコットランド王ジェームズ4世を死させた。しかし岳父フェルナンドと結ぶこの反フランス・親スペイン外交路線はイギリスにとって必ずしも有益ではなかった。

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世界大百科事典内のヘンリー[8世]の言及

【アイルランド】より

…アイルランド人はバイキングに抗しきれずにいたが,ようやく1014年に,マンスター王ブライアン・ボルーBrian Boruの指揮の下でバイキングをクロンターフの戦で打ち破り,以後,都市に住むバイキングはしだいにアイルランド化していった。
[ノルマンの侵略とイギリスによる征服]
 各地方の諸王の間ではボルーの死後,抗争が絶えず,12世紀には,レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世に失地回復のための援助を乞うた。求めに応じて海を渡ったアングロ・ノルマン貴族ストロングボーは現地にとどまってレンスター王を継ぎ,他のアングロ・ノルマン貴族もアイルランドに進出した。…

【青髯伝説】より

…そのうち最もよく引合いに出されるのは15世紀の貴族ジル・ド・レで,この人物はジャンヌ・ダルクを助けたことでも知られるが,他方〈幼児虐殺者〉の異名をとり,ナントで処刑されている。ほかにもイギリス王ヘンリー8世など,モデルとされる歴史上の人物は少なくない。しかし超自然的な青い髯や禁断の部屋のモティーフを手がかりに,より普遍的な原型をさぐる研究もなされている。…

【アン・ブーリン】より

…イギリス国王ヘンリー8世の2番目の王妃。トマス・ブーリン(のちのウィルトシャー・オーモンド伯)の次女。…

【医学】より

…これらは教会が設立主体になっていたが,宗教改革やそれにからんだ内戦・外戦の間におおむね閉鎖された。イギリスでは,ヘンリー8世が1534年に国王至上法を発布し,国教を誕生させるが,このとき教団の施設・財産を没収,売却した。収容されていた病人,身障者,孤児,老人たちは,追い出されて街を徘徊して物ごいやかっぱらいなどをして治安上の問題となり,また行路病でたおれるなど衛生上にも問題となった。…

【イギリス】より

…以後宗教改革期まで,国民国家の台頭による王権と教皇権の対立にもかかわらず,イギリスの教会はカトリック教会の枝として存続した。 1534年ヘンリー8世は離婚問題を契機とする宗教改革で,イギリスの教会をローマより分離し,長年イギリスの社会・宗教生活に大きな役割を果たしてきた修道院を解散した。ヘンリーの死後二転三転した宗教事情は,エリザベス1世登位(1558)後〈教義的にはプロテスタント,礼拝様式ではカトリック〉といわれた英国国教会として定着した。…

【イギリス音楽】より

…以後15世紀を通じて数多くのイギリス作曲家たちが大陸で活躍して初期ルネサンス音楽の発展に貢献したが,その間イギリス本土では保守的な傾向が15世紀末まで続き,中世的な様式が依然人気を保ち続けていたことは,オールドホール手写譜などの資料から明らかである。
[黄金時代]
 16世紀を通じて栄えたチューダー朝は,音楽好きのヘンリー8世とエリザベス1世を生み出し,イギリス音楽史上最大の黄金時代を迎えた。ヘンリー8世はフェアファックスR.Fayrfax(1464‐1521)やコーニッシュW.Cornysh(1468ころ‐1523)らの作曲家を優遇し,当時流行中のフランスのシャンソンを奨励するとともにみずから作曲をも手がけている。…

【宗教改革】より

カルビニズムは,伝統的社会秩序を重んずるルター派に比べると,資本主義的な営利活動の肯定,カトリックの君主に対する政治的抵抗を容認するなど,より自由主義的な性格をもっており,勤労者層のほか貴族の間にも支持を得て,フランスのユグノー戦争や,スペインの支配に対するネーデルラントの独立運動(八十年戦争)などで,その戦闘的なエネルギーを実証した。なお,イングランドでは,ヘンリー8世の時代に,もっぱら政治的動機から教皇権よりの独立,国教会体制の移行がはじまったが,プロテスタントの教義の受容はエドワード6世治下のことであり,主教制と独自の礼拝形式をもつアングリカニズムの確立は,メアリー女王のカトリック反動を経て,エリザベス1世の時代に持ちこされた。正統なカルビニズムの立場から,この国教会体制を批判する長老派教会は,さまざまな迫害をうけつつも勢力を伸ばし,ピューリタンと呼ばれる非国教徒の主流を形成してゆく。…

【チューダー朝】より

…ヘンリー7世(在位1485‐1509)に始まり,17世紀初頭に至るイギリスの王朝。ウェールズ系のリッチモンド伯ヘンリー・チューダーは,その母がエドワード3世(在位1327‐77)の子ジョン・オブ・ゴーントの末裔であったために,ランカスター派の王位継承者とみなされ,ばら戦争最後の戦闘ボズワースの戦でリチャード3世を破ってヘンリー7世として即位。…

【フィッシャー】より

…ケンブリッジで教育を受け,1504年総長就任。ヘンリー8世の祖母マーガレット・ボーフォートに進言して,ケンブリッジに二つのカレッジを,またオックスフォード,ケンブリッジ両大学に神学講座を開設させた。他方,エラスムスをケンブリッジに招聘するなど,人文主義の普及にも努めた。…

【郵便】より

…フランスでは,ルイ11世が1464年に王室用の駅逓制度を創設した。イギリスではヘンリー8世期の1516年に王の秘書官チュークBrian Tuke(?‐1545)を駅逓頭Master of the Postsに任命したことによって,本格的な駅逓制度が確立された。これは幹線道路に20kmごとに宿駅を設定して人と馬を備えたものであるが,利用できるのは飛脚便の使者,官吏,政府の幹部等に限られていた。…

【利子】より

…カルバンは利子取得を容認し,サルマシウスClaudius Salmasius(1588‐1653)が徴利禁止の理論的基礎を批判した。イギリスではヘンリー8世が1545年に年10%以内の利子取得を認める法令を発布した。カトリック教会も19世紀前半に至って利子を容認するようになった。…

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