パンジャーブ(英語表記)Punjāb

改訂新版 世界大百科事典 「パンジャーブ」の意味・わかりやすい解説

パンジャーブ
Punjāb

インド亜大陸北西部のインダス水系中流域の地方名。〈五つの川〉の意。五河は一般には西から順にジェラム,チェナーブ,ラービー,サトレジ,ビアスを指すが,ビアスをインダス本流に替える説もある。その範域は,自然地理的には,ほぼヤムナー川以西,タール砂漠北縁部以北,スライマーン山脈東麓以東,シワリク丘陵以南の平原を指す。政治的にはこれより大きく,1910年代の英領パンジャーブと諸藩王国の範域は,現在のパキスタンのパンジャーブ州(面積20万3000km2,人口7362万,1998。州都ラホール),インドのパンジャーブ州(面積5万0400km2,人口2436万,2001。州都チャンディーガル),ハリヤーナー州,ヒマーチャル・プラデーシュ州,デリー連邦直轄地を含む。

地形は,ジェラム川以北のポトワル高原(標高500m前後)を除くと,低平な沖積平野が広がる。シワリク丘陵南麓の標高約300mから南西方向に向けてきわめて緩やかに傾斜し,南西端では標高約70mとなる。この最低所に向けて諸河川が流下するため,水系網はここをかなめとする扇形を描く。水系網の河間の地がドアーブdoāb(〈二つの川〉の意)で,多くは両側を流れる河川名にちなむ名をもつ。ドアーブは河流沿いのベートbethと呼ばれる狭長な新しい沖積低地と,その背後の比高6~10mの崖によって画されるバルbarと呼ばれる古い沖積台地からなる。用水路灌漑化以前には井戸灌漑が可能な山麓部などを除くとバルの大部分は放牧に利用されるにすぎず,農業はベートとその周辺に限られていた。降水量は全般に300~600mmと少なく,タール砂漠に接する南西端では100mm前後に減少する。夏雨型から冬雨型への漸移地帯にあたり,西に向かうにつれて農業も夏作から冬作中心へと変化する。

前2000年ころ栄えたインダス文明の代表的遺跡ハラッパーは中央部のラービー川近くにある。英領化されるまでのインド亜大陸の歴史は,西および中央アジアからの侵入勢力とそれへのインド土着勢力の対抗という一面をもつ。侵入勢力はまずパンジャーブでインド亜大陸に馴化(じゆんか)し,根拠地を設けて土着勢力を打破することにより,東方および南方への進出が可能となった。とくにデリー北方のパーニーパット周辺が,両勢力の角逐の場となることが史上しばしばあった。最初の西方からの侵入勢力は前1500年ころのアーリヤ人である。彼らはここで定住生活へと変わり,パーニーパット北方のクルクシェートラを根拠地として北インド一帯に進出し,ヒンドゥー・インドの骨格をつくりあげた。パンジャーブに侵入した西方勢力は,初期のおもなものに限っても,前518年ころのダレイオス1世,前327-前325年のアレクサンドロス大王,1世紀半ばのクシャーナ朝などがある。これらはいずれもここを東限として西帰するか,ここに地方的な王権を樹立するかのいずれかであり,政治勢力としてインド史に大きな影響を与えることはなかった。しかし11世紀になるとこの関係は変化し,西方からのガズナ朝,次いでゴール朝の侵入は,ムスリム政権デリー・サルタナットの成立を導いた。さらに1526年にはアフガニスタンからバーブルが侵入し,パーニーパットでローディー朝を倒してムガル帝国を築いた。同帝国の衰退とともに19世紀初めには,ランジート・シングの下にシク王国が成立し,イギリスに対抗した。イギリスは西方から侵入しなかった例外的な西方勢力であった。シク王国は19世紀中期に2回のシク戦争を戦ったが,1849年敗北し英領に編入された。これによって英領インドの版図は完成した。このような多彩な歴史を反映して,パンジャーブは主要言語ではパンジャービー,ウルドゥー,ヒンディー,主要宗教でもイスラム,シク教ヒンドゥー教が並存する地方となった。

 英領化とともに大用水路の建設が進められた。ドアーブ上のバルは広大なキャナル・コロニー(用水路入植地)に変わり,パンジャーブは世界有数の灌漑農業地帯となった。これにより小麦,綿花(1861-65年のアメリカ南北戦争を契機に,アメリカに代わってイギリスへの原料供給地として生産拡大),サトウキビなどの生産が拡充し,亜大陸の穀倉となった。独立運動においてもパンジャーブは重要な位置を占める。20世紀初めの民族抵抗運動の指導者の一人ラージパット・ラーイを生み,1919年のアムリッツァル(現インドのパンジャーブ州所在)の虐殺事件はガンディーの非暴力抵抗運動進展のきっかけとなったし,また40年のラホールでのムスリム連盟大会はパキスタン国家建設を綱領に採用した。47年のインド・パキスタン分離独立は宗教によるパンジャーブの分割でもあった。イスラム教徒の卓越する西部はパキスタンに,シク,ヒンドゥー両教徒の卓越する東部はインドに属し,藩王国も宗教に基づきいずれかに帰属した。インド側は,48年に北東部のヒマーチャル・プラデーシュを連邦直轄地(州昇格は1971年)として,さらに66年には南東部のハリヤーナーを州として分離させた。両州ともにヒンドゥー教徒が多いが,言語はおのおの西パハーリー語,ヒンディー語を主とする。現在のインドのパンジャーブ州はシク教徒パンジャービー語地帯にあたっている。

シク教はヒンドゥー,イスラム両宗教の批判的融合を目ざす宗教であり,ムスリム(イスラム教徒)政権ムガル帝国のアウラングゼーブ帝により迫害,弾圧された歴史をもつ。逆にシク教とヒンドゥー教とは対立し合ったことはなかった。それが,インド・パキスタン分離独立に際して,シク教徒がインドへの帰属を選択した理由でもあった。しかしシク教徒はその帰属によってヒンドゥー教徒と同一視されることを拒否し,自らのアイデンティティの保持を主張する。その主張はパンジャーブ州のシク教徒を基盤とするアカーリー・ダルAkālī Dal(〈不滅党〉の意)によって代弁され,インド独立後の旧パンジャーブ州の再編も同党の主張によるものでもあった。しかし富裕なパンジャーブ州への貧しいビハール州などからのヒンドゥー教徒の流入により,現パンジャーブ州人口に対するシク教徒の比率は低下し,過半数をわずかに上回るにすぎない。またパンジャーブ州の農民の圧倒的多数がシク教徒であり,同州はインドの食糧供給基地として国民経済に大きな貢献をしているのに,中央政府の同州への投資は小さいこと,あるいはインド陸軍に占めるパンジャーブ州のシク教徒の比率も,各州からできるだけ平等に兵員を徴募するという中央政府の方針変更により低下してきたこと(1947年の33%から81年の12%へ)なども,シク教徒の不満を増大させる要因となっている。こうした不満から,パンジャーブ州を中心にシク教国家カーリスターンKālistānの建設を主張する急進派も登場してきた。しかしその登場は一見シク教とヒンドゥー教との対立という形をとりつつも,中央政府と州との対立という連邦国家インドの抱える普遍的な問題から生み出された側面を強くもっている。

インドとパキスタンによるパンジャーブの分割は用水路の一元的運営を解体し水利紛争を招いた。1948年に着手されたバークラー・ダム,ビアス川とサトレジ川合流点でのハーリケ堰堤の建設は,水資源確保のためのインド側の対応であり,水利紛争をいっそう激化させた。しかし60年に世界銀行の仲介によるインダス川水利条約が成立し,ラービー,サトレジ,ビアスの東部3川はインドが,インダス本流,ジェラム,チェナーブの西部3川はパキスタンが利用することになった。恵まれた灌漑をもとに,60年代後半からインド,パキスタン両パンジャーブ州ともに〈緑の革命〉の成功地帯となり,とくに小麦と米の生産拡大が著しく,農業の機械化も進展している。工業も従来からの農産物加工,繊維に加えて,農業機械,機械,金属,セメント,化学などの諸工業が主要都市に立地する。これら諸工業は,インド側ではバークラー・ナンガル,パキスタン側ではマングラとタベラの各多目的ダムからの電力を主要動力としている。鉱産資源はインド側は少なく,パキスタン側のポトワル高原は石油,南西端のデーラー・ガージー・ハーンはウランを産する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パンジャーブ」の意味・わかりやすい解説

パンジャーブ
ぱんじゃーぶ
Punjab

インド北部およびパキスタン中北部のインダス水系中流域の地方名。インダス川の五つの支流、ジェラム、チェナブ、ラービ、ビアス、サトレジの各川が流れ、五河地方と称される。ヒマラヤ山地の山麓(さんろく)から緩傾斜する広大な沖積平野で、山麓近くでは1000ミリ近い年降水量があるが、大部分は600ミリ以下の半乾燥~乾燥地帯である。そのため、古くから春の融雪水や夏のモンスーンの増水を利用した溢流灌漑(いつりゅうかんがい)が行われていた。近代的灌漑用水路によって恒常灌漑が可能になったのは、1859年にラービ川から取水した上部バリ・ドアブ用水路がつくられてからで、それ以降20世紀初期にかけて五河の水を余すところなく利用する大規模な灌漑組織が建設され、インド有数の農業地帯となった。1947年のインドとパキスタンの分離独立の際、パンジャーブ地方は両国に分割され、同名の州が両国に置かれることになった。しかしこの分割は灌漑組織を無視して線引きされたため、両国間に水争いが生じ、1960年の水利協定成立まで続いた。協定成立後、ラービ、ビアス、サトレジの東部三川の水を得たインドは、ハリアナ州とラージャスターン州に達する大用水路を建設、一方パキスタンも従来利用していなかったインダス川本流の活用を大規模に進めている。こうした灌漑組織の整備を土台に、二つのパンジャーブ州では「緑の革命」を進展させ、それぞれインド・パキスタン両国のもっとも重要な穀倉地帯となっている。農業の発展に伴い、農産物の集散とその加工、さらに化学肥料、機械などの工業が立地し、農村中心の都市が数多く発達している。

[藤原健蔵]

歴史

地名の語源はペルシア語の「五つの川」panj-āb、つまりインダス川東部の五大支流とその流域のことで、歴史的にはインダス川本流からヤムナー川までの地域をさすことが多い。インダス文明の北部中心地で、ハラッパー遺跡がある。紀元前1500年ごろ北西方からアーリア人が移住し、ヒンドゥー教最古の聖典『リグ・ベーダ』を成立させた。前6~前4世紀にイランのアケメネス朝の属領であり、前4~前3世紀のマウリヤ朝下に仏教が広まった。前3~前1世紀にギリシア系バクトリア、イラン系サカ、パルティアの支配、後1~3世紀にクシャン朝が隣接のガンダーラ地方を本拠に中央アジアに及ぶ大帝国を形成し、シルク・ロードの遠隔地貿易を基礎にしてヘレニズム様式の仏教美術などガンダーラ文化を生んだ(北部にタキシラ遺跡)。3~4世紀にイランのササン朝の属領、4~7世紀にグプタ朝、ギターラ朝、フン人、シャーヒー朝の支配で仏教は衰退した。8世紀初めに南部をシンドのアラブ政権が、11世紀初めに全域をアフガニスタンのガズナ朝が征服、以来18世紀なかばまでムスリム(イスラム教徒)諸王朝が支配し、西部でイスラム化が進行、ラホールが政治・文化の中心地として発達した。この都市の近くで15世紀末ごろにシク教が成立、1765年にシク政権が樹立されたが、1845~49年の対イギリス戦争に敗れ、イギリス植民地の一州となった。1947年のインド・パキスタンの分離独立で、ヒンドゥー、シクの多い東部がインド領、ムスリムの多い西部がパキスタン領に分割され、前者は66年にパンジャーブ語のパンジャーブ州、ヒンディー語のハリアナ州に再編された。

[浜口恒夫]

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百科事典マイペディア 「パンジャーブ」の意味・わかりやすい解説

パンジャーブ

インド西部とパキスタンにまたがる地方。インダス川とその5大支流(サトレジ,ビアス,ラービー,チェナーブ,ジェールム)の流域地帯で名は〈五つの川〉の意。北部山岳地方を除き大半は肥沃な沖積平野。灌漑(かんがい)により主要な農業地帯を形成,小麦,綿花,サトウキビ,雑穀類を多産する。製粉・繊維工業も行われる。インダス文明の発達した地で,ハラッパーなどの遺跡がある。前1500年ころアーリヤ人がこの地に侵入して北インド一帯へ進出。11世紀以降イスラム諸王朝に支配され,デリー・サルタナットの成立をみた。ムガル帝国時代を経てシク王国のときシク戦争を戦ったが,1849年大部分が英領。1947年インド,パキスタンの分離独立で,総面積の3分の1,人口の2分の1を占める東部がインド領となり,現在ヒマーチャル・プラデーシュ州の一部,パンジャーブ州(2169万5000人,1994年。州都チャンディーガル),ハリヤーナー州(1792万5000人,1994年。州都チャンディーガル)に相当。残りの西部がパキスタン領のパンジャーブ州(7258万5000人,1998年。州都ラホール)となった。シク教の中心地だが,分離独立に際して教徒の多くはインドへの帰属を希望。シク教徒の政治的独立をめざす運動が盛ん(パンジャーブ問題アカーリー・ダル)。
→関連項目カラチソアン文化トゥムリーヌスラットバングラー・ビートパンジャービー語

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パンジャーブ」の解説

パンジャーブ
Panjab

インド北西部のインダス川中流地域。「五つの川」の意で,インダス川の5支流に由来する。歴史的には,西方の政治勢力がインド亜大陸に進出する際の経路であった。19世紀初めにシク王国が成立したが,1849年にイギリスに併合された。1947年のインド・パキスタン分離独立により,ヒンドゥー教徒,シク教徒が多い東部はインド領,ムスリムが多い西部はパキスタン領となった。穀倉地帯で,60年代の緑の革命で農業生産を拡大したことで知られる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パンジャーブ」の解説

パンジャーブ
Punjab

インド北西部からパキスタンに至る,インダス川中流の五大支流の流域地域の名称
インダス文明発祥地で,ハラッパーなど多くの遺跡がある。1947年のインド・パキスタンの分離独立のときに分断された。同地方のアムリットサルはシク教の中心都市として有名。

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