ガンディー
Mohandas Karamchand Gandhi
1869〜1948
インド独立運動の指導者。国父と仰がれ,マハトマ(偉大な魂)と尊称される
西部インドのヴァイシャ(商人)のカーストに属する家に生まれ,ロンドン大学卒業後,弁護士となる。1893年から1914年まで南アフリカで人種差別反対運動を指導。この間,非暴力・不服従運動を始める。帰国後,国民会議派に加わり,第一次世界大戦後,ローラット法などのイギリスの弾圧に対しスワラージ・スワデーシー実現のために第一次・第二次サティヤーグラハ運動を指導し(1919〜22,30〜34),22回投獄された。彼はスワラージ実践のため,みずからチャルカ(糸繰車)をまわして手織布を奨励したり,1930年には360kmを行進して,海岸で塩をつくるという「塩の行進」を成功させたりした。イギリスは1935年,新インド統治法を施行。インドの独立要求は無視された。いっぽう,彼は国内に残る差別として,不可触賤民(パリア)を「神の子(ハリジャン)」と呼び,その解放に努力した。第二次世界大戦後の1946年,イギリスはインドの独立を承認,47年インド連邦(ヒンドゥー教徒主体)とパキスタン(イスラーム教徒主体)が分離独立した。彼はこの後も統一インドの実現を願っていたが,1948年にヒンドゥー教徒によって暗殺された。
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ガンディー
インドの政治家,建国の父。マハートマーMahatma(大きな魂)と呼ばれた。グジャラートに生まれる。両親は敬虔(けいけん)なヒンドゥー教徒で,幼時より宗教に親しんだ。13歳で同年のカストルバイと結婚。1888年英国に留学,弁護士の資格を取得して帰国。1893年商社の顧問弁護士となり,南アフリカに渡る。そこでインド人の差別虐待に抗議し,非暴力主義に立つ不殺生(アヒンサー)を基調とするガンディー主義に到達する。ことに1913年ナタール州からトランスバール州へ敢行した〈サティヤーグラハ行進〉は全世界の共感を呼んだ。1915年までの22年間をほとんど南アフリカで過ごす。帰国後は労働運動やインド独立運動に従事し,国民会議派を強化した。1919年にはローラット法に反対して最初のサティヤーグラハ闘争を指導した。以後,1930年の塩専売法反対のための〈塩の行進〉等を指導し,しばしば投獄された。独立後も,イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に挺身(ていしん)したが,デリーで狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺された。著書《自叙伝》《非暴力から生じる力》等。
→関連項目キング|菜食主義|スノー|タゴール|ネルー|不可触民|プレームチャンド
ガンディー
インドの政治家。インド共和国初代首相ネルーの娘。1938年インド国民会議派に入党し,独立運動に参加した。独立後は父の秘書的存在であったが,1966年―1977年,1980年首相となる。1969年の国民会議会の分裂をのりきり,1971年の第3次インド・パキスタン戦争を勝利に導いた。国内の反体制運動には強硬に臨んだ。1984年,アムリットサルの黄金寺院でシク教過激派を弾圧したため,同年10月シク教徒に銃撃され死亡した。息子R.ガンディーが国民会議派を引き継いだ。
→関連項目インド
ガンディー
インドの政治家。祖父はインド共和国初代首相ネルー,母インディラ・ガンディーも元首相。ケンブリッジ大学卒業後,インド航空のパイロットになったが,1980年弟のサンジャイ下院議員の急死で政界入り。1984年10月,インディラ・ガンディー首相が暗殺され,その後を継いで国民会議派を率い,首相となった。国内の民族問題には対話をもって臨み,経済の開放を進めたが,1989年首相辞任。1991年爆弾テロにより死亡。1998年に妻ソニアが国民会議派総裁となった。
→関連項目インド|タミル問題
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ガンディー【Indirā Gāndhī】
1917‐84
初代インド首相J.ネルーの一人娘で,女性政治家。イギリスに留学。1942年,パールシー(ゾロアスター教徒)の政治家フェローゼ・ガンディー(1913‐60)と結婚。長男ラジーブ(1944‐91)と次男サンジャイ(1946‐80)の2人の息子を生む。父ネルー首相のもとで政治活動に入り,59‐60年インド国民会議派総裁を経て,66年1月首相に就任した。69年の与党国民会議派の分裂,71年の第3次印パ戦争勝利を経て,強大な支配権を確立した。
ガンディー【Mohandās Karamchand Gāndhī】
1869‐1948
インドの政治指導者,思想家。〈バープー(父)〉〈マハートマー(偉大な魂)〉と称され,インド人大衆に親しまれた。カーティアーワールKāthiāwār半島の小藩王国ポールバンダルの大臣の長男として生まれた。4年間のロンドン留学で弁護士資格を得て1891年帰国。93年にある訴訟事件の依頼で南アフリカのナタールに渡ったことでその人生はコペルニクス的転換を見る。すなわちそこに働くインド人年季契約労働者の市民権獲得闘争を指導することとなり,自ら〈サティヤーグラハ(真理の把持)〉と名付ける大衆的非暴力抵抗運動を成功に導く。
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世界大百科事典内のガンディーの言及
【インド[国]】より
… 分割にともなう混乱のうちもっとも深刻だったのは宗教暴動の続発,パンジャーブ州とベンガル州の真ん中に人為的に引かれたインドとパキスタンの東西の国境線を越えての住民の移動(ヒンドゥー教徒とシク教徒がインドに,ムスリムがパキスタンに),大量の難民の発生である。会議派のシンボル的な存在であったM.K.ガンディーはこのような状況をみて独立達成の意義に疑問をもつようになっていたが,彼自身もそのムスリムへの宥和的態度を憎む狂信的なヒンドゥー教徒によって48年1月にニューデリーで暗殺された。
[ネルー政権の基盤]
独立によって総督,あるいは共和制に移行してからの大統領の地位は名目的なものとなり,政治の中心は連邦首相に移った。…
【インド】より
…この過程を通じて,議会選挙の有権者の範囲は拡大されたが,ムスリムに独自の議席を設け,宗教徒間の対立を醸成した。一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。…
【国民会議派】より
… こうした背景から,初期の国民会議派はきわめて限られた階級・階層の利害を代弁する穏健な組織で,しばしばイギリス統治の安全弁といわれた。しかし20世紀初頭〈ラール・バール・パール〉と呼ばれたL.ラージパット・ラーイ,B.G.ティラク,B.C.パールら急進的民族派が主導権を握って展開した1905‐08年の〈ベンガル分割反対闘争〉,第1次大戦後19‐22年および30‐34年のガンディー指導下の〈サティヤーグラハ運動〉を通じて,インド人大衆の反英・反帝国主義運動の中枢的組織へと発展していく。特にこの間ガンディーの独特の主導の下で,P.J.ネルーを先頭とする少数=急進派とV.J.パテールやR.プラサードら多数=保守派が最高指導部として巧みに統合され,州・県・郡・村とつながる確固たる組織網が形成された。…
【サティヤーグラハ】より
…〈真理(サティヤ)の把捉(アーグラハ)〉の意で,インド独立の父といわれるM.K.ガンディーの政治闘争の理念。ガンディーは,1893年南アフリカにインド人商社の顧問弁護士として赴いた(1914まで)が,同地での厳しい人種差別政策に抗して,インド人移民の基本的人権を確立する闘争を指導した。…
【ジンナー】より
…初期においてはヒンドゥーとムスリムの統一に基づく民族運動の路線を進み,16年ムスリム連盟議長となり,インドの自治に関する国民会議派・ムスリム連盟協定の成立に尽力し,自治要求連盟でも積極的役割を果たした。しかし20年のガンディー指導の非暴力的抵抗闘争には強く反対し,会議派を離れた。20‐30年代初め,長くロンドンに滞在する中で,インド・ムスリム独自の利害擁護の方向に傾いた。…
【断食】より
…ヒンドゥー教の聖人やヨーガ行者たちのあいだで,断食は日常的な身体訓練であると同時に神に仕える聖なる手段であった。近代のできごととしてはM.K.ガンディーの断食による政治的抵抗がよく知られている。またヒンドゥー教の影響をうけた密教では断食行が重視されたが,仏教の一般的な原則としては八種斎戒の一つとしての非時食を中心とする精進行(しようじんぎよう)が主流を占めた。…
【チャルカー】より
…綿花,羊毛,まゆなどから糸を紡ぐのに使う手動の器械で,古くインド農村手工業において重要な役割を果たす。イギリスによる植民地化過程で農村手工業は壊滅し,手紡ぎ車も放棄されたが,1920年代の民族運動の中でガンディーがスワデーシー運動の一環として,農村経済自立を目指すチャルカーによる手紡ぎ綿糸とカーディー(手織綿布)の生産奨励に乗り出した。これによりチャルカーは蘇生し,以来国民会議派の運動の象徴とさえなる。…
【帝国主義】より
…このようにホブソンの《帝国主義論》は時流に鋭敏な対応をし,帝国主義の改革の目標を明示したために大きな影響力をもつにいたった。 第2は,ガンディー主義の形成である。M.K.ガンディーは1893年より1914年まで南アフリカで弁護士としてインド人(大多数はクーリーと呼ばれた契約労働移民)の人権を確立する闘争を行った。…
【ヒラーファト運動】より
…第1次世界大戦後のイギリスの対トルコ政策,とくにイスラム国家最高主権者カリフの廃止をめぐり,カリフ制擁護を掲げてインド・ムスリムが立ち上がった反英闘争の一つ。アリー兄弟,アーザード,モハニらが結成したヒラーファトKhilāfat委員会に対して,この問題をヒンドゥー・ムスリム統一強化の好機とするガンディーは,国民会議派組織を挙げてこれに合流,自ら全インド・ヒラーファト委員会議長となる。多くのムスリム大衆は〈ヒラーファト〉の意味をカリフ制ととらず,イギリスへの〈対抗〉(キラーフ)と考えていたといわれるが,従来ムスリム連盟が組織しえなかった農村ムスリム大衆を反英民族運動に糾合した歴史的意味は大きい。…
【ヒンドゥスターニー語】より
…とくに1930年代からは,ヒンドゥスターニー語の話される地域において,諸組織の言語をめぐる動きがイギリスの分断統治政策に巻き込まれて,宗派対立の様相を呈してきた。その対立を克服すべく,M.K.ガンディーはインドの最も多くの人が解する平明なヒンドゥスターニー語を,デーバナーガリー文字またはペルシア文字のうち各人の好むほうで表記しながら普及させようとの運動を始めた。それは,イギリス統治からの独立後に統一インドを実現する志向とも重なる努力であるが,ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の激化のために実現されなかった。…
【不可触民】より
…4バルナに属する一般住民(カースト・ヒンドゥー)にけがれを与える存在とみられ,〈触れてはならない〉人間として社会生活のすべての面で差別されてきた。ヒンディー語でアチュートachūt,英語でアンタッチャブルuntouchable,アウト・カーストout‐casteと呼ばれ,またガンディーは彼らに〈神の子〉を意味するハリジャンharijanという呼称を与えた。欧米ではパリアpariahの名でも知られる。…
【プレームチャンド】より
…19年,39歳で学士試験に合格。21年ガンディーの非暴力不服従運動の呼びかけに応じ,21年間の教職を辞任。ヒンディー語で書かれた長編小説《休護所》(1918),《愛の道場》(1922)で社会改良の理想を描き,《人生劇場》(1924),《行動の広場》(1932)で,ガンディーの思想と行動の理解,解説に努め,晩年にはソ連の動きに心を動かされながら,虐げられた人々,悲惨な農民の生活と運命を,自らの造語でいう〈理想主義的写実主義〉の立場に立って描いた。…
【平和】より
…異文化間接触による平和の意味の変容がその例である。ガンディーの非暴力〈直接抵抗〉の原理の樹立と実践は,インドの平和観に支配的なアヒンサーと,不正義に対する〈否〉を教えるキリスト教の理念との接触による変容の所産であり,また不正義に力を対置させるアメリカ人の開拓精神とキリスト教文化の伝統のなかにいたM.L.キングの〈非暴力〉直接行動は,逆にガンディーの影響なしにはありえなかったであろう。これらは異文化間の正の学習結果であるが,負の学習もある。…
※「ガンディー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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