百科事典マイペディア 「アール・ヌーボー」の意味・わかりやすい解説
アール・ヌーボー
→関連項目ジャポニスム|象徴主義|武田五一|バーン・ジョーンズ|ブレーク|ポスター|北海道立近代美術館|リバティ
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19世紀末から20世紀初頭にかけ、欧米各地で一斉に流行した装飾様式。多用されるしなやかな曲線と曲面に特色がある。「新しい芸術」を意味するこの名称は、1895年末に美術商サミュエル・ビングがパリに開いた店の名「アール・ヌーボー」に由来する。ビングの店はベルギーのバン・デ・ベルデによって豊かに装飾されたうえ、新時代の到来を思わせる工芸品を展示した。ビングがド・フール、ガイヤール、コロンナの3人の工芸家の協力を得て、1900年のパリ万国博覧会に六つの部屋を出陳して大成功を収めるころ、「アール・ヌーボー」という店名が人々の間で様式名に転化し、定着したのであった。1900年にパリ市内百数十か所に設置されたギマール設計の幻想的な地下鉄入口も、アール・ヌーボーという様式のイメージを決定づけた。ギマールは「カステル・ベランジェ」をはじめ数多くの集合住宅によっても、アール・ヌーボー様式の確立を導いた。このほかポスターの領域におけるミュシャやグラッセ、宝飾品のラリック、とりわけナンシーの地でアール・ヌーボーを盛り立てた工芸家ガレの名前があげられる。
しかしもとより、アール・ヌーボーはフランスに限定されない。ベルギーではオルタの活躍が著しく、タッセル邸やソルベー邸では「オルタの線」をほしいままにした。バン・デ・ベルデはベルギーでアール・ヌーボー工芸家として出発したのち、ビングの店などに力を貸し、さらにドイツの工芸界に圧倒的な影響を及ぼした。ドイツではほぼ同傾向の装飾様式に対して「ユーゲントシュティル」Jugendstilの名があてられるが、これは1896年にミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント』(青春)にちなんでつけられたものである。これらより早くイギリスで進められた美術工芸運動の新風は、アール・ヌーボーの精神を先取りしていた。イギリスではこの動きは「モダーン・スタイル」(近代様式)と称された。ロンドンで進行した美術工芸運動とは別に、グラスゴーのマッキントッシュが特筆される。マッキントッシュの清新な感覚はウィーンの分離派運動と結び付く。このようにアール・ヌーボーという装飾様式は広範囲な国際性に大きな意義をもっている。アメリカにおける建築家サリバンの豊かな装飾、あるいはスペインの異才ガウディの熱狂も、ここに加えられる。
アール・ヌーボーは新時代にふさわしい装飾様式を目ざしたものであったが、各国各人それぞれに、ゴシック、バロック、ロココなどかつての装飾感情が再解釈された局面も多い。日本美術から得た教訓も随所に反映された。たとえばビングは「アール・ヌーボー」を開店する前に月刊誌『芸術的日本』36号を刊行している。なお明治末年から大正期にかけて、日本の美術工芸界がアール・ヌーボーを逆輸入し、独特の風潮をつくりだした意味も大きい。アール・ヌーボーの波打つような装飾は、表面の飾りに終わらず、深い神秘や象徴主義と複合する部分が多く、アール・ヌーボーに魅了されるのはこの相貌(そうぼう)においてである。しかし20世紀に入ってこれが速やかに退潮した理由もまた、機械時代の機能主義に相いれないこの相貌においてであった。20世紀の建築とデザインは、あるときは装飾を罪悪とまでに決めつけ、別の進路をとっていった。
[高見堅志郎]
『S・T・マドセン著、高階秀爾・千足伸行訳『アール・ヌーヴォー』(1970・平凡社)』▽『N・ペブスナー、J・M・リチャーズ編、香山寿夫訳『反合理主義者たち 建築とデザインにおけるアール・ヌーヴォー』(1976・鹿島出版会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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