やまと絵(読み)やまとえ

改訂新版 世界大百科事典 「やまと絵」の意味・わかりやすい解説

やまと絵 (やまとえ)

倭絵,大和絵とも書く。〈やまと絵〉は,日本絵画史のうち宗教画を除く鑑賞的絵画,すなわち風景・花鳥画,物語・人物・風俗画などのジャンルにおける最も主要な基礎概念として,平安時代以来現代に至るまで長い間用いられてきた。その意味内容はさまざまな変遷を経る中でしだいに多義にわたり,現在では,日本的な主題や画風をもった絵画を意味するかなり包括的な概念として使われている。

 今日,絵画が〈やまと絵〉的と形容されるとき,一般に豊麗な色彩の調和や装飾的感覚に裏付けられ,平明で多分に情趣的な内容をもち,日本的な感性や美意識に訴えかけるような表現に満ちている場合を指すことが多い。しかし絵画用語としてのやまと絵の語義は厳密には各時代で異なっており,それらは文献や遺品の実証的考察によって明確にされる必要がある。

奈良時代に中国から新しい絵画の様式と技法が移入されると,もっぱら中国画の習熟につとめ,奈良~平安初期には,主題も賢人聖人を描いた〈賢聖障子(けんじようのしようじ)〉,史書や仏典に由来する物語図の〈荒海(あらうみ)障子〉〈昆明池(こんめいち)障子〉などに限られていた。しかし9世紀後半ころから日本(倭,やまと)の風景や風俗を描くことが始まると,これをやまと絵と呼び,前者をその反対概念である唐絵(からえ)として両者を区別した。〈やまと絵〉という言葉は,長保元年(999)の《権記》にみえる藤原彰子入内のため調えられた飛鳥部常則画の〈倭絵四尺屛風〉を初出として平安時代に10余例が知られる。その文献的な研究によれば,〈倭絵〉は〈唐絵〉とともに大画面の障屛(しようへい)画形式の絵画に対して用いられ,両者は画題上の区別であり,様式的な差異を意味するものではなかったことが指摘されている。唐絵が中国の故事・風俗を屛風・障子に描いたのに対し,やまと絵は日本の題材を描いた屛風・障子絵であり,しかも成立当初から,当時の和歌愛好の気運と深く結びついていた。四季の自然や人事,各地の名所などを歌った和歌の興趣深い情景を絵画的イメージとして画面に定着させるとともに,画題となった和歌を,色紙形に能筆の手で書き添えることで,歌と絵と書の3者を一体として鑑賞する方式を生み出したのである(歌絵)。貴族たちは和歌を媒介として画中の世界に遊び,逆にまた名所や画中人物の心をみずからのものとして新たに歌を詠んだ。こうして詠進された屛風歌,障子歌はおびただしい数にのぼり,《古今和歌集》をはじめとする当時の和歌集に収録された歌の中で占める割合も驚くほど高い。和歌文学と絵画とはやまと絵障屛画において相互に深くかかわりあい,おのおの独得の表現力と高い芸術性を獲得したと想像される。

 現存するやまと絵屛風の遺品は皆無に等しいが,遺された屛風歌,障子歌を手がかりとして,当時のやまと絵の形式や主題,とりわけ画面に描き込まれたさまざまなモティーフを知ることができ,日本的な画題の発生と展開のあとをたどることも可能である。これらやまと絵障屛画は,その画題の構成法によって,はやくからいくつかの形式に分けられてきた。変化に富んだ四季の景趣や,12ヵ月折々の風物行事を連続的に描いた四季絵月次(つきなみ)絵,さらに歌枕として名高い各地の名所を四季の移り変わりと重ね合わせて連作とした名所絵である。また月次絵,名所絵の両者を統合整備したものとして大嘗会屛風が重要である。これは唐絵屛風(五尺四帖)とやまと絵屛風(四尺六帖)とから成り,10世紀以降,歴代天皇の大嘗会の際に新造された,最も公的な,威儀を正したもので,一流の歌人,画家,書家が動員された。唐絵障屛画が奈良時代以来,もっぱらこのような儀式など公的な場に用いられ続けたのに対し,やまと絵障屛画がこれと並んで清涼殿内に並べられたという点に注目すべきだが,さらに発展して宮廷や貴族の邸宅の私的空間にやまと絵障屛画が飾られ,鑑賞者である貴族の好尚を反映し,新しい表現を生み出していったのである。

 そこでは単に日本的な画題というにとどまらず,様式・技法にも中国のそれとは異なる日本的な美的感覚が加えられ洗練されていった。これらの制作にあたったのは宮廷の絵所に所属する絵師たちであったが,9世紀後半の活躍が知られる巨勢金岡(こせのかなおか)あたりから,そうした傾向が萌しはじめ,続く巨勢派の画人たちや飛鳥部常則,さらに11世紀初頭の巨勢広貴(弘高)に至って,主題および様式・技法がともに日本化した大画面絵画が完成の域に達したものと推察される。1053年(天喜1)落慶平等院鳳凰堂の扉絵〈阿弥陀九品(くほん)来迎図〉の背景に,宇治近辺の山水・風物を思わせる風景を展開させ,しかも四方の扉ごとに四季の季節感を与えて,堂内全体で四季絵を構成している。阿弥陀聖衆来迎図の傑作としてのみならず,山水風景のそこここに点綴された景物は失われたやまと絵障屛画に代わり,当時の和様化した風景画のあり様を如実に示している。また,神護寺所蔵の《山水(せんずい)屛風》(鎌倉時代初期)は,時代は若干下るが,やまと絵屛風の数少ない遺例である。画面全体に穏やかな山水景が広がり,さまざまな花鳥草木にまじって,各所に貴賤の遊楽や労働の営みが特に脈絡もなく配される。その描かれた対象と鮮やかな色彩を用いた描写法によって平安時代の四季絵,月次絵の実態,なかんずく屛風歌とのかかわりを追想できよう。一方,京都国立博物館蔵の《山水屛風》は,11世紀後半に作られた唐絵屛風の唯一の実例で,唐詩人の幽居のさまを主題とするが,背景をなす山水風景は,前述の鳳凰堂扉絵のそれに通じる表現がみられ,主題としての唐絵においても様式・技法の上ではしだいに日本化がすすめられていったことを示している。なお,これら大画面の障屛画とともに,平安時代には絵巻や冊子絵などの小品画が盛行した。《源氏物語絵巻》《信貴山縁起》《扇面法華経冊子》など遺品も少なからず存在するが,これらは前述したようなやまと絵障屛画の日本的な画題や様式・技法をより濃厚に伝えているにもかかわらず,当時の文献中では〈やまと絵〉と称されておらず,単に何々絵などの内容に即した呼称で表示された。

このような平安時代を中心とする〈やまと絵〉〈唐絵〉の語義やその用法は,鎌倉時代後半期に中国から新たに舶載された絵画を唐絵と呼ぶに至って変貌をとげる。すなわち宋・元時代以降の中国画そのものや,それらに影響されて成立した新しい主題や様式による絵画,なかんずく水墨画を唐絵ないしは漢画と呼んだのに対し,〈やまと絵〉はその反対概念として,平安時代以来の伝統的な表現様式による絵画を広く意味する様式語へと変化したのである。

 禅宗寺院でおもに発展した水墨画を中心とする新様式の唐絵(漢画)は,詩画軸をはじめとする多くの作品を遺し,一般に鎌倉末から室町期は漢画全盛と受けとられがちである。しかし,絵巻物などの小品画とならんで,屛風・襖絵などの大画面にも前代以来のやまと絵の伝統が継承されていたことは,絵巻物の画中画などがよく示している。1309年(延慶2)に絵所預(えどころあずかり)高階隆兼が描いた《春日権現験記》は濃彩綿密な技巧の極致を示し,古典的なやまと絵表現の集大成とみることができる。このように宮廷絵所の絵師を中心にやまと絵の正系が伝えられ,14世紀末には絵所預となった土佐行光以後,土佐派の画人は代々絵所預の職を世襲するに至った。やまと絵はその画風を特徴づける言葉となり,様式上の概念からさらに流派的意味をも含むものとなった。土佐派の中では,室町末期に出た土佐光信がやまと絵様式をよく伝えてこの流派の基礎を固めた。

室町幕府の御用絵師をつとめた狩野正信を始祖とする狩野派をはじめ,室町末~桃山期には漢画派が隆盛するが,江戸初期には土佐光吉が古典的な主題を豊麗な色彩で描き,ついで土佐光則は繊細な細密画にやまと絵の特色を発揮した。その子光起は断絶していた絵所預に復帰し,京都を中心として新しい土佐派様式を確立,さらに光吉の門人如慶は住吉派を興し,その子具慶以後,代々江戸幕府の御用絵師として,同じくやまと絵の画系を継承した。近世初期の俵屋宗達に始まる琳派もまた,古典的な主題や伝統的なやまと絵様式を創造の糧として装飾的画風を打ち立てた。しかしその後,江戸末期に田中訥言(とつげん)や岡田(冷泉)為恭(ためちか)らの復古大和絵派の画人が出たものの,これらやまと絵系画派はふるわず,むしろやまと絵が本来もつ日本的感性に根ざした表現を理想として,内容的にも,様式・技法的にも新たな創造の道をひらいたのは,明治以降の近代日本画家たちであったといえよう。
日本画 →日本美術
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「やまと絵」の意味・わかりやすい解説

やまと絵
やまとえ

倭絵,大和絵,和絵とも書く。日本絵画史における基本的用語の一つとして,平安時代以来現在まで広く用いられたが,その概念は歴史的に何段階かに変化した。平安時代には,中国的な主題を扱った唐絵 (からえ) に対するものとして,日本の風景や風俗を描いた絵,特に月次絵 (つきなみえ) ,名所絵などの屏風障子絵に対して用いられた。すなわち当初の語義は主題上の区別であり,様式的な概念は含まれていなかった。しかし鎌倉時代後期から宋元絵画の舶載が盛んになると,これらの中国画を唐絵と呼び,さらにその影響を受けた新様式の日本画,特に水墨画に対しても唐絵の語が用いられた。すると反対概念である「やまと絵」も内容を変化拡大させ,平安時代以来の伝統的な風俗画や風景画を広く意味するようになった。室町時代以降この種の伝統的絵画は宮廷の絵所 (えどころ) ,ことに土佐家 (→土佐派 ) の人々によって世襲され,禅林を中心とする水墨画家や,和漢融合を意図する狩野派と対立するに及んで,やまと絵は流派的意義を含んだ様式概念となった。江戸時代においては住吉派や復古やまと絵の画家などにも継承され,明治以後新しい日本画を生む基盤の一つとなった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「やまと絵」の解説

やまと絵
やまとえ

倭絵・大和絵・和絵とも。唐絵(からえ)と対をなす語として平安時代から用いたが,語義は時代とともに異なる。平安時代には日本の風俗や自然風景を描いた絵画,とくに四季絵・月次(つきなみ)絵・名所絵などをさした。屏風や障子に描かれたものには,しばしば屏風歌とよばれる和歌が記され,絵画とともに鑑賞の対象とされた。鎌倉後期頃からは,新たに舶載された水墨画やそれに類した唐絵に対し,平安時代以来の伝統的な絵画をさした。室町時代には流派の意識がうまれ,天皇や公家の注文により伝統的な絵画を制作する土佐派がおこり,唐絵の様式を統一した狩野派とともに日本画の二大流派となる。江戸時代には土佐派からわかれて住吉派も現れた。浮世絵の絵師たちも大和絵師を自称する。現代ではこうした歴史をふまえた伝統的・日本的絵画を大和絵とよぶことがある。

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世界大百科事典(旧版)内のやまと絵の言及

【飛鳥部常則】より

…作品は全くのこっていないが,954年(天暦8)村上天皇筆の法華経の表紙絵,958年(天徳2)村上天皇の女御芳子の調度屛風,964年(康保1)には清涼殿に白沢王の像を描いたことなどが知られている(《村上天皇御記》)。999年(長保1)の藤原彰子入内のための倭絵四尺屛風は〈故常則画〉と記され(《権記》),没年の下限が推定されるばかりでなく,〈やまと絵(倭絵)〉という語の最も古い用例として著名。また《源氏物語》には,彼の描いた宇津保物語絵を評して〈いまめかしうおかしげに〉とあり,9世紀後半ころからはじまった日本の風景・風俗を描いたいわゆる〈やまと絵〉の新たな様式展開を巨勢公忠,公望らと共に担った画家として位置づけられる。…

【歌絵】より

…歌に詠まれた情景を絵画化し,そこに歌の心ばえや情趣を表出させたもの。平安時代のやまと絵は和歌と密接なかかわりをもって展開した。ただし,四季おりおりの景物や名所風景を描く屛風絵,障子絵は原則として歌を伴っているが,これらは歌絵とは呼ばれていない。…

【障屛画】より

…東寺に伝来した《山水(せんずい)屛風》(現,京都国立博物館)はそのような唐絵屛風の貴重な遺例である。 9世紀後期に入って和歌の全盛期をむかえ,障屛画に日本の諸景物や勝景を描いた〈やまと絵〉画題の諸作品が誕生した。やがて,日本人特有の生活感情に支えられ,四季や12ヵ月の景趣に彩られた人間の営みを描く四季絵や月次絵(つきなみえ),日本諸国の名所を描出する名所絵などのやまと絵障屛画が,文献に数多く記録されるようになる。…

【室町時代美術】より

…夢窓疎石による天竜寺庭園や西芳寺洪隠山枯山水石組みもまた,平安時代以来の庭園の伝統に,新たな禅の精神の骨組みを加えたものである。
[やまと絵]
 唐物趣味の流行に押されて,また宮廷や公家の経済的劣勢もあって,伝統的なやまと絵の分野は停滞したとみられているが,それは,障屛(しようへい)画の遺品が乏しいためであって,実際は新しい動きのあったことが,14世紀の絵巻の画中に描かれた障屛画などからうかがえる。古代以来の屛風の一扇ごとの縁が取り払われて,それが構図の統一を有利にしたことも推察できる。…

【名所絵】より

…歌枕など諸国の名所を選び,連作として屛風絵や障子絵に描いたものを名所絵と呼ぶ。月次絵(つきなみえ)や四季絵とともに,日本の風景・風俗を描いたやまと絵の主要なジャンルをなした。和歌に詠まれた名所の興趣深い情景を描き出し,主題となった和歌をそれぞれの画中の色紙形に能筆をもって書き込んだり,あるいは描かれた名所絵を前に,その風情を歌に詠じ合って興じたもので,やまと絵障屛画の常として和歌と絵画とが深く結びついていた。…

※「やまと絵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」