デジタル大辞泉 「ロビンソン」の意味・読み・例文・類語
ロビンソン(Jack Roosevelt Robinson)
[補説]黒人メジャーリーガーの先駆者としての功績を称えて、ロビンソンの背番号42はメジャーリーグの全球団で永久欠番となっている。
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アメリカの映画俳優。戦前はジェームズ・キャグニー,ジョージ・ラフト,ポール・ムニらと並ぶギャング俳優として知られ,戦後は芸域の広い性格俳優として脇役に回った。
ルーマニアのブカレストのユダヤ人家庭に生まれ(本名はEmmanuel Goldenberg),10歳のときアメリカへ渡って,ニューヨークのローワー・イースト・サイドで育つ。貧者を助ける弁護士を志してシティ・カレッジに入学するが,やがて奨学金を得てアメリカ演劇アカデミーで学び,1915年にブロードウェーにデビューしたのち,舞台と映画で頭角をあらわした。8本目の出演映画《犯罪王リコ》(1931)で〈アンチ・ヒーロー〉を一個の人間像として演じて成功し,映画に登場するギャングの原型をつくった(〈ギャング映画〉の項も参照)。その後はギャング映画ばかりでなく,反ナチ映画の第1号として知られる《ナチ・スパイの告白》(1939),《偉人エーリッヒ博士》(1940),《肉体と幻想》(1943)その他の個性的な演技で国際的な〈性格俳優〉になったが,第2次世界大戦中に〈反ナチ同盟〉に積極的に協力したことが戦後になって共産主義の同調者とみなされて,右翼から攻撃され,さらに非米活動委員会へ出頭して〈潔白〉を主張する証言をしてからは,左右両陣営の攻撃をうけることになった。
フリッツ・ラング監督《飾窓の女》(1944),《スカーレット・ストリート》(1945),ジョン・ヒューストン監督《キー・ラーゴ》(1948),ジョゼフ・L.マンキーウィッツ監督《他人の家》(1949),セシル・B.デミル監督《十戒》(1956),アレクサンダー・マッケンドリック監督《サミー南へ行く》(1963)等々で印象的な名演ぶりを見せたが,キャリア全体としてみれば作品にも役にもあまり恵まれないまま,《ソイレント・グリーン》(1973)を最後に不遇のうちに癌で死亡した。42年間に86本の映画に出演しながら,アカデミー賞に一度もノミネートされたことがなかった。フランス印象派絵画の収集家としても知られたが,コレクションは離婚問題解決のため325万ドルで手離したと伝えられている。73年,アカデミー協会が死亡直前に内定して贈った特別オスカーには,映画に貢献した功績とともに〈ルネサンス・マン〉(芸術に精通する博学の知識人)としてたたえることばが刻まれている。自伝《All My Yesterdays》(1973)がある。
執筆者:柏倉 昌美
イギリスの経済学者。1925年ケンブリッジ大学経済学部を優等で卒業,やがて同大学経済学部講師となる。この間26年に経済学者E.G.A.ロビンソンと結婚。当時支配的であったA.マーシャルの経済学に対しP.スラッファらの批判が起こると,その影響を受けて《不完全競争の経済学》(1933)を書き上げた。その後ケインズを囲む若い経済学者の一人として討論に参加,ケインズの《一般理論》(1936)の成立に貢献した。他方マルクス経済学も研究し《マルクス経済学》(1942)を出版。その刺激もあってケインズ理論の長期動態化を試み,ついに大著《資本蓄積論》(1956)を完結させた。その後資本価値をめぐって問題を提起し,P.A.サミュエルソンらとの間にいわゆる〈ケンブリッジ資本論争〉を展開,新古典派理論の基盤に鋭い批判を浴びせた。65年夫(1950年以降教授)の後をついでケンブリッジ大学教授(1965-71)となり,73年以降名誉教授。主要論文は《経済論文集》全5巻(1951-79)に収録されている。
執筆者:山田 克巳
アメリカの詩人。メーン州に生まれ,田舎町の人々の暗い生活を素材とした詩集《夜の子ら》(1897)によって詩才を認められ,T.ローズベルト大統領にニューヨークの税関の仕事を与えられた。ホイットマンにささげたソネットでは,アメリカの巨匠の歌がやみ,現代では生きる目的を失ったことを嘆いている。彼の詩風はそうした空疎な人物の描写にすぐれ,T.S.エリオットの〈うつろな人間〉を予想させるところがある。その傾向は《リチャード・コーリー》《フラッド氏のパーティ》などの作品にもみられるが,詩集《空を背にして立つ男》(1916)で頂点に達した。《ロビンソン詩集》(1921),《二度死んだ男》(1924),《トリストラム》(1927)でピュリッツァー詩賞を受け,後年はアーサー王物語を扱った三部作に没頭した。現代ではフロストと並ぶ保守的な詩人として,その手堅い韻律の技法で認められている。《全詩集》(1937)がある。
執筆者:新倉 俊一
アメリカの地図学者。カナダのモントリオールで生まれ,1936年マイアミ大学を卒業,38年ウィスコンシン大学で修士の学位を,47年オハイオ州立大学で博士の学位を得た。第2次世界大戦中は軍務に服したが,終戦後は一貫してウィスコンシン大学の地理学教室にあって,地図学の地位を飛躍的に高めた。72年から76年までICA(国際地図学協会)の会長を,80年まで副会長を務めた。ロビンソンの学風は地図を広義のコミュニケーションの手段としてとらえ,地図のメーカーからユーザーへの情報伝達の実態を心理学的に研究する点に特色がある。おもな著書に,《地図学の基礎Elements of Cartography》(1953。第5版1984),《The Look of Maps》(1952),《The Nature of Maps》(1976)などが知られる。
執筆者:野村 正七
アメリカ大リーグの黒人選手。1947年ナショナル・リーグのブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)に入団したが,それまで大リーグは黒人選手の参加を認めておらず,ロビンソンは大リーグ黒人選手の第1号に当たる。ドジャース黄金時代の主軸打者,名内野手として活躍,黒人選手台頭の足がかりをつくり,野球殿堂入りした。56年ドジャースとともに来日,豪快なホームランは日本のファンを魅了した。
執筆者:広畑 成志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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イギリスの有機化学者.マンチェスター大学で学位を取得.1912年シドニー大学教授,1915年リバプール大学教授,1920年British Dyestuff Co.研究所所長,1921年セント・アンドルーズ大学教授,1922年マンチェスター大学教授,1928年ロンドン大学教授,1930年オックスフォード大学教授,1955年Shell Chemical Co.研究所所長を歴任した.植物色素のアントシアニンの研究,アルカロイドの合成,ナルコチンの分子内転位の研究,抗マラリア剤の発明などに業績があったほか,有機電子論の成立に大きな役割を果たした.アルカロイドの研究で,1947年にノーベル化学賞を受賞.そのほか,Longstaff medal,Faraday Medal,Davy medalなど,数多くの賞を受賞した.1945~1950年王立化学会会長.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…やがてトーキーによって拳銃の発砲やマシンガンの掃射や自動車の疾走などが〈音〉を獲得するや,その暴力とアクションの魅力で大衆を熱狂させ,30年代初頭にギャング映画は黄金時代を迎えることになる。その口火を切ったのが,ギャング映画の古典として知られる次の3作,マービン・ルロイ監督,エドワード・G.ロビンソン主演《犯罪王リコ》(1930),ウィリアム・A.ウェルマン監督,ジェームズ・キャグニー主演《民衆の敵》(1931),ハワード・ホークス監督,ポール・ムニ主演《暗黒街の顔役》(製作は1930年,公開は32年)で,いずれもシカゴのギャングのボスとして鳴らし,当時まだ獄中にあったアル・カポネをモデルにして主人公の無法の人生と末路を描いた。主役を演じたロビンソン,キャグニー,ムニはいずれも一躍スターにのし上がり,また《暗黒街の顔役》でムニの弟分を演じたジョージ・ラフトとともに,4大ギャングスターとなった。…
…20世紀前半の名選手にはタイ・カッブ,ベーブ・ルース,L.ゲーリッグらがいる。 第2次大戦後の話題の一つは,1945年にドジャースのB.リッキー会長に見込まれ契約し,47年一軍入りして大リーグ初の黒人選手となった内野手J.ロビンソンである。激しい人種差別の中で好成績をあげてナ・リーグ新人王となり,以後W.メーズやH.アーロンなど多くの黒人選手が活躍する道をひらいた。…
…ロビンズのこの立場は,とるべき手段の適正性,それに伴う費用を重要視するものであって,日本で近代経済学と呼ばれる経済学にとって重要な意味をもつものとなっている。もちろん,J.ロビンソンをはじめとして批判は多いが,ロビンズの考え方は現在にいたるまで近代経済学の指導原理の一つとなっている。
【スミス《国富論》】
経済学が今日のような形での一つの学問分野としてその存在を確立されたのはA.スミスの《国富論》に始まると一般に考えられている。…
… 最近の例は,第2次大戦後とくに50年代半ばから60年代終りにかけて,経済成長理論の発展に伴って生じた一連の論争である。それは主として,J.ロビンソンをはじめとするイングランドのケンブリッジ大学の経済学者と,R.M.ソローをはじめとするアメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学の経済学者のあいだに交わされた論争であるため,ケンブリッジ(資本)論争Cambridge controversies in the theory of capitalと呼ばれる。 それまでの数々の資本論争の再現ともいえるこの論争の根底には資本主義経済における生産と分配そして資本主義経済の発展自体を,どのような角度から分析するかについての対立がある。…
…そのうえですべての財の市場において価格支配力をもつ経済主体が存在しないならば,一般均衡が成立することを立証し,しかもその均衡はパレート最適であるがために規範的にも望ましいことを主張する。1930年代に行われたJ.ロビンソンやE.チェンバレンの独占的競争理論も,独占の弊害を指摘し,市場が資源配分にバイアスをもたらすことを明らかにしたものの,合理的行動と市場均衡という新古典派の基本仮説を否定するものではなかった。 ところが,J.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論(一般理論)》は,新古典派からの逸脱であり,ケインズ革命とよばれるにふさわしい出発点であった。…
…70年代に入ると,戦後の世界資本主義体制を支えたブレトン・ウッズ体制が崩壊するに至り,国内均衡と対外均衡を両立させるポリシー・ミックスが求められるなかで,有効需要創出政策としてのケインズ政策は挑戦を受けたのである。 こうした状況下で,J.V.ロビンソンが71年12月,アメリカ経済学会の記念講演において〈経済理論の第二の危機〉を指摘したことは大きな関心を呼んだ。ロビンソンはケインズに続くポスト・ケインジアンの領袖として《一般理論》の一般化のために蓄積と成長・分配の問題に取り組んだが,そのさい,1960年代後半以降の先進資本主義諸国の現状がケインズ自身の直面した1930年代と識別されるものであることに注意を払おうとした。…
※「ロビンソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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