高見村(読み)たかみむら

日本歴史地名大系 「高見村」の解説

高見村
たかみむら

[現在地名]駒ヶ根市中沢なかざわ 下割しもわり中割なかわり上割かみわり

東は大松尾おおまとう山、東から北西に流れる新宮しぐ川を境に中山なかやま中曾倉なかそぐら本曾倉ほんそぐらの村々に接する。西は天竜川、西より南にかけては菅沼すがぬま永見山ながみやまの村々に接する。村内を下高見・上高見町あるいは下割・中割・上割などに分けた。

鎌倉時代に神氏の一族がこの地方に本拠を構え、中沢郷八ヵ村の地頭職を有し、その後この一族が新補地頭となって出雲国牛尾庄に移住した(集古文書)。当時、中沢郷八ヵ村のうちに高見村が含まれていたことは推定できるが、同文書にはみえない。村名の初見は大永四年(一五二四)の諏訪社上社の「磯並造宮料請取日記」(御造宮日記之写)

<資料は省略されています>

とあり、更に「高見ノ内」として、しとく・引の田・赤柴殿分等がみえる。

高見村
たかみむら

[現在地名]小川町高見

能増のうます村の北西にあり、南は高谷こうや村、西から北は市野いちの川を挟んで男衾おぶすま今市いまいち(現寄居町)松山まつやま領に属した。かつては今市村と一村であったが、正保年間(一六四四―四八)以前に分村したと伝える(風土記稿)。中世には鎌倉街道の上道が通る交通の要衝であった。太田道灌書状写(松平文庫所蔵文書)などによれば、長尾景春の反乱に際して文明一二年(一四八〇)一月頃、太田道灌は秩父地方に籠る景春方に対して「竹沢辺歟高見辺歟打出、相交太山被陣取」、また「高見在陣衆」を引連れて戦っている。なお高見南西部の独立丘陵山頂部(四津山とよび、標高一九七メートル)には高見城跡がある。

高見村
たかみむら

[現在地名]瑞穂町高見

和田わだ村の北、出羽いずわ川左岸で同川支流の高見川流域に開けた平地と後背山地に立地。高見川沿いに円の板えんのいた入野いりの・高見・馬場ばば安田やすだ段の原だんのはら荻原おぎはらの七集落がある。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に邑智郡の庄領として「たかミのしやう 廿丁」とみえ、鎌倉初期には高見庄と称されていたらしい。弘治二年(一五五六)頃には毛利氏の勢力が浸透しつつあり、同年四月八日には出羽民部大輔(元祐)山南さんなん半分とともに高見が与えられている(「毛利元就・同隆元連署知行充行状」閥閲録)

高見村
たかみむら

[現在地名]長岡市高見町・東高見ひがしたかみ一―二丁目・下々条しもげじよう

長岡町北方の平坦地で、新潟街道(現国道八号)が南北に縦走する。南は下条村、北は十二潟じゆうにがた新田。西には黒津くろづ村があり、その西側、当村より一〇町弱に信濃川が北流し、村中福島ふくじま江が分流して注ぐ。天正村名考(温古之栞)に「高見の沖六十八軒」とある。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高一〇四石八斗余のほかに高三石の新田一ヵ所を記す。正保国絵図では高三八四石余。正保三年(一六四六)に牧野氏の本検地を受けた。旧高旧領取調帳では六〇八石九斗余で天保郷帳と同高。当村には津留番所が置かれ、城下より北方の他領への出入りを監視した。

高見村
たかみむら

[現在地名]松原市高見の里たかみのさと二―三丁目・田井城たいじよう四丁目

松原村の西、西除にしよけ川右岸にあり、北は長尾街道を境に田井城村。平坦でかつては四囲が水田であった。昭和五八年(一九八三)高見の里一丁目の住宅地造成現場から井戸跡が発見され、その中より枡(約一升二合)が平安末期の瓦器とともに出土した。近世には丹北郡に属し、寛保三年(一七四三)までの領主の変遷は田井城村に同じ。幕末には幕府領。慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に村名がみえ狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋おおひ筋から取水していた。

高見村
こうみむら

[現在地名]洞戸村奥洞戸おくほらど

南流する板取いたどり川西岸に位置し、南は阿部あべ村、北東白谷しらたに(現板取村)。荷かね・似金とも記される。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に「荷かね」とみえる。元禄郷帳に洞戸高見村と記され、高二四石余。「濃州徇行記」によれば高四七石余、畑五町六反余、山六町余をもち山税一石余、農間に桴乗をして賃銭稼を行う。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報