高畠庄(読み)たかばたけのしよう

日本歴史地名大系 「高畠庄」の解説

高畠庄
たかばたけのしよう

小金森こがねもり・高畠一帯に比定される。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「高畠庄」とみえ、公田数が一五町九段九で建久二年(一一九一)に立券状を得たとある。宝治二年(一二四八)八月二七日当庄の出作地(加納)であった小柴こくぬぎ村の地頭職に中原久家が補任された(雑録追加)。久家は延応元年(一二三九)八月に亡父朝厳から庄内小柴村地頭職を譲与されたが、久家の嫡兄がそれを一時預かっており、宝治二年に至り久家が相伝し、改めて将軍家から補任の下文を得たものであった。建長五年(一二五三)九月二六日、幕府の評定所で式目の案文を備進した能登国の御家人「高畠太郎式久」(吾妻鏡)は当庄の地頭で、久家と「久」の通字を共有する同族であろう。高畠氏は外来地頭として能登に来住後、鎌倉前期において当庄地頭職を相伝する高畠嫡家(朝厳・式久)のほかに、小柴村の地頭となった庶家(久家)を創出していた。

高畠庄
たかばたのしよう

賀茂別雷かもわけいかずち神社領。現中川区の高畑たかばた町はその遺称か。成立年次・荘域などは不詳。

寿永三年(一一八四)の院庁下文および源頼朝下文により、武士狼藉を禁止された同社領四二ヵ所の一つに「尾張国 高畠庄」とある。「吾妻鏡」建久三年(一一九二)一二月一四日条に「平家没官領」としてみえ、おそらく領家職を平家一門が知行していたものと考えられる。頼朝は没官領とした後、御器所ごきそ保などとともにこの荘を妹である一条能保の室に譲り与えた。室の没後の建久三年、能保はその遺領を子供らに譲った(吾妻鏡)が、その後の伝領関係は明らかでない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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