隈本古城跡(読み)くまもとふるしろあと

日本歴史地名大系 「隈本古城跡」の解説

隈本古城跡
くまもとふるしろあと

[現在地名]熊本市古城

熊本城の南西茶臼ちやうす山から南西に突き出た丘陵地末端部にあった熊本城の前身の城跡。三郭の城郭からなり、北は自然の浸食谷によって丘陵から切り離され、西は古城堀、東と南は坪井つぼい川によって囲まれた自然の要害。「国誌」によれば、大永―享禄年間(一五二一―三二)鹿子木親員(寂心)が、菊池家幕下として飽田あきた郡・山本やまもと郡のうち五六〇町を領し、千葉ちば城に入城。狭隘であったため新たに西方に隈本城を築き、子の親俊とともに在城、寂心は四四年間在城したという。これから加藤清正の熊本城築城までを隈本(古)城という。在城期間には諸説があり、「古城主考」は明応五年―天文八年(一四九六―一五三九)とする。四代目鑑国の時、鹿子木氏は菊池義武を擁立して乱を起こし、豊後大友宗麟により隈本城を追われた。続いて隈本城には城親冬が入城する。「国誌」によれば、城氏は山鹿やまがじよう(現山鹿市)を拠点としていた菊池氏の一族で、飽田託麻たくま二郡を領して、天文八年―天正一五年(一五三九―八七)まで親冬・親賢・久基の三代にわたり在城した。島津氏に属したが、天正一五年豊臣秀吉の九州平定の際秀吉に降伏した。同年佐々成政が入城したが、成政は国衆一揆の責任をとって翌年切腹。その後に肥後半国一九万五千石の領主として加藤清正が入城した。

古城跡は加藤・細川氏時代は熊本城二ノ丸に含まれ、古城ふるしろとよばれ、大身の武家屋敷が置かれた。「肥集録」によれば古城西口、古城口が須戸口となっている。武家屋敷は戦国期の城跡を利用して造られた。着手時期は不明だが、慶長一二年(一六〇七)頃には城郭を壊し、武家屋敷を設置することにしたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報