菊池義武(読み)きくち・よしたけ

朝日日本歴史人物事典 「菊池義武」の解説

菊池義武

没年天文23.11.20(1554.12.14)
生年:永正2(1505)
戦国時代の肥後国主。大友義長の子,義鑑の弟。幼名菊法師,通称十郎,別名重宗,義宗,義綱など。左兵衛佐。永正17(1520)年菊池氏名跡を継ぐため肥後(熊本県)に入国,隈本を本拠とする。天文3(1534)年筑後進出を意図して大内氏と結び,豊後の兄義鑑と対立。肥前島原亡命し,その後肥後八代に姻戚の相良氏を頼る。同9年,相良・名和氏らの助けを得て大友方を隈本に攻めるが失敗。同19年義鑑横死事件(二階崩れの変)を機に隈本に入城。肥後南部,筑後南部の国衆と呼応して肥後制圧を試みるが,大友勢の出兵により落城,島原に退去。同23年落髪。日向,薩摩への亡命成らず。和平口実に豊後に入国させられ,木原自害。<参考文献>『八代日記』『相良文書』『大友文書録』

(阿蘇品保夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊池義武」の解説

菊池義武 きくち-よしたけ

?-1554 戦国時代の武将
豊後(ぶんご)・筑後(ちくご)の守護大友義鑑(よしあき)の弟。肥後(熊本県)菊池氏の名跡をつぎ,26代惣領(そうりょう)となる。天文(てんぶん)3年大内義隆(よしたか)とむすんで兄と対立し,兄の死後甥(おい)の大友宗麟(そうりん)に豊後(大分県)木原にさそいこまれ,天文23年11月20日自殺。26代485年にわたった菊池家はとだえた。幼名は菊法師丸。初名は重治。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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