開発村(読み)かいほつむら

日本歴史地名大系 「開発村」の解説

開発村
かいほつむら

[現在地名]守山市洲本町すもとちよう

木浜このはま村の南東、野洲やす川南流の左岸、法竜ほうりゆう(放流川・法隆川とも)右岸に位置。開発と西隣の大曲おまがりの集落からなるが、開発を東村と中村に分け、大曲を開発西村とよんだ。また東から順に開発上村・中村・下村とも称した。正和四年(一三一五)四月一二日の延暦寺西塔衆会事書(「公衡公記」同月一五日条)に「開発郷」とみえる。寛正四年(一四六三)二月一六日の年紀をもつ絵像(蓮光寺蔵)裏書には「江州南郡開発中村」とみえる。同三年蓮如は「野洲南郡開発中村」の妙実に親鸞絵像(蓮光寺蔵、寛保三年の写による)を下付し、寛正の法難によって金森かねがもりを退いたあと妙実の道場(真宗大谷派蓮光寺)に滞在したこともある。


開発村
かいほつむら

[現在地名]砺波市東開発ひがしかいほつ

下中条しもなかじよう村の南にある。東は庄川を挟んで権正寺ごんしようじ村・八十歩はちじゆうぶ村。対岸宮森みやもり村の与蔵という者が移住してきて開いた村と伝える(稿本柳瀬村誌)。慶長一〇年(一六〇五)の神尾之直宛の前田利長知行所目録(加越能文庫)には、利波となみ郡の「開発」二六一石余のうちなか村に相当する四四石余などを神尾氏に与えるとある。元和五年(一六一九)の家高新帳には「かいほつ」とみえ、開発組に属し役家数一一。


開発村
かいほつむら

[現在地名]朝日町岩開いわかい

丹生山地東麓にあり、北は朝日村、南は佐々生さそう村。康正二年造内裏段銭并国役引付に「九百六十三文」として「妙法院御門跡領、越前国開発村、段銭」と村名がみえる。京都妙法みようほう院領織田おた庄に含まれ、また享禄元年(一五二八)一一月二八日付の寺社請状(劔神社文書)に「織田大明神社納分 米方」として、「壱石八斗 但八斗六升之定 開発公文名之内油田 道西寄進分」とあり、つるぎ神社(現織田町)の社領があった。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では、織田庄に含まれた。正保郷帳に村名がみえ、田方六一一石余・畠方三〇石余。元禄郷帳から開発村三六一・九五石、岩永いわなが村二八〇・四石に分れて記される。現在も両村の地籍は入交じっている。


開発村
かいほつむら

[現在地名]富山市ひらきおかなど

射水丘陵呉羽山くれはやま丘陵につながる丘陵上に位置し、東は平岡ひらおか村。江戸時代後期に三熊さんのくま村の東、通称茨山を開き村立てされた。婦負郡に属し、富山藩領。文化三年(一八〇六)小長沢こながさわ(現婦中町)の治郎三郎ら四名が連署で茨山新開の請状を差出し、田方二〇〇石・免一ツ八歩、畑方一〇〇石・免一ツ、計三〇〇石を開いて開発村と称した。富山城下中野なかの町の岡田屋嘉兵衛と同材木ざいもく町の安田屋与次兵衛を銀主に頼み、灌漑用の石坂いしさか堤・袋田ふくろだ堤を翌四年春までに、室見坂むろみざか堤を五年後までに開削、村高三〇〇石のうち半分は三年で開き、四年目に請、残り半分は五年で開き六年目に請するとされている(「御用留帳」岡崎家文書)


開発村
かいほつむら

[現在地名]福光町開発

山本やまもと村の東にあり、西を明神みようじん川が北東流する。東は福光村。弘長二年(一二六二)三月一日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)にみえる「曾波谷・伊加須谷・加々谷・高宮開発新田」の「開発」を当地とする説がある(越中志徴)。永正一六年(一五一九)正月一一日の小柴吉定等連署寄進状(「石黒家由緒書」石黒伝六家蔵)によれば、長蓮・蓮崇父子の御霊供田として「石黒庄上ノ郷之内、(中略)同開発之内」寺米の年貢二〇〇貫文より米四俵などが長寿院(現石川県金沢市本長寺)へ寄進された。


開発村
かいほつむら

[現在地名]上市町中開発なかかいほつ

飯坂いいざか村の南に位置し、東は小泉こいずみ村、西は放士ほうじ瀬新せしん村・上荒又かみあらまた村、南は太郎右衛門新たろうえもんしん村。上条じようじよう郷にあり、上条開発村とも称した。飯坂村とを結ぶ道がある。正保郷帳では高四七九石余、田方三〇町九反余・畑方九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高二四五石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)


開発村
かいほつむら

川中流域に展開し、近世下皆発しもかいほつ村・東皆発村を遺称とする。伊川上いかわかみ庄に所属。延文三年(一三五八)八月一一日、源朝臣某が「所願成就家門昌栄」を祈願して「開発 友末名内」の新々田二段(了信分)太山たいさん寺仏生涅槃仏名会料田として寄進している(「源朝臣某田地寄進状」太山寺文書)。応永二二年(一四一五)八月七日沙弥(赤松か)性貞により開発村国吉五段が灯油田として(「沙弥性貞灯油田寄進状」同文書)、翌二三年八月一〇日には同村の年貢米のうち二石一斗六升がそう社定安居米としてそれぞれ太山寺に寄進された(「沙弥性貞安居米寄進状」同文書)


開発村
かいほつむら

[現在地名]富山市開発・月見町つきみちよう

だんノ山の西麓に位置し、東から南は月岡新つきおかしん村。富山藩領。月岡野のうちで水利が悪く、最も開発の遅れた地とされる。天保九年(一八三八)の改作奉行達書(高堂家文書)によると、月岡野内の家数三五軒、草高三〇〇石ほどの地が一村立てを許され、以来開発村と称した。しかし同一三年二月の郡奉行願書(岡崎家文書)には、当村は下地が悪いため難渋の村柄であるとみえ、同五月には新畑を開き、加賀藩領二松ふたまつ(現大沢野町)から稲荷社を勧請した(横越家文書)


開発村
かいほつむら

[現在地名]福岡町かいほつ

大滝おおたき村の南、木舟きぶね村の南東、岸渡がんど川左岸の平地に立地。旧北陸街道(中田道)が北端部を通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に「かいほつ村」とみえ役家数四、大滝組に属した。正保郷帳では高三〇〇石余、田方一八町五反余・畑方一町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三五四石、免三ツ五歩(三箇国高物成帳)


開発村
かいほつむら

[現在地名]大野市開発

真名まな川と清滝きよたき川による扇状地の扇頂部に近く、東は友兼ともかね村、北西森政地頭もりまさじとう村、南は稲郷とうごう村。永禄一二年(一五六九)六月一六日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)御給ごきゆう村の項に「壱石五斗 開発村 南衛門尉」とみえる。慶長三年(一五九八)の越前国大野郡開発村御検地帳の写(広瀬家文書)によると、村高は四一七・二二石で、これは廃藩まで変わらなかった。


開発村
かいほつむら

[現在地名]黒部市天神新てんじんしん

北は三日市みつかいち村、東は牧野新まきのしん村、西は開発新村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二四四石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。天保九年(一八三八)四石の手上高があり、同一一年の草高二四八石(「高免帳」杉木家文書)。寛政六年(一七九四)には散小物成として七木運上銀三匁七分三厘があり、慶応四年(一八六八)七石の手上高があり草高二五五石、免は変わらず(下新川郡史稿)


開発村
かいほつむら

[現在地名]福井市開発町・西開発にしかいほつ一―四丁目

福井城下北東の志比口しひぐち外の勝山街道北側に位置する。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高二千四五七石余。正保郷帳によれば田方二千三二九石余・畠方一二八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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