福光村(読み)ふくみつむら

日本歴史地名大系 「福光村」の解説

福光村
ふくみつむら

[現在地名]福光町 ひがし町・観音町かんのんまち旭町あさひまち西町にしまち荒町あらまち栄町さかえまち中荒町なかあらまち五宝町ごぼうまち本町ほんまち宮脇町みやわきちよう天神町てんじんまち川原町かわらまち味噌屋町みそやちよう神田町かんだまち寺町てらまち東新町ひがししんまち中央通りちゆうおうどおり

現福光町北部、北東流する小矢部おやべ西岸にある。西を同川支流明神みようじん川が北東へと流れる。南西城端じようはな方面から当村を経て西に向かい、坂本さかもと村などを経て加賀国へ至る二俣ふたまた越が通る。また東へは宗守むねもり村などを経て井波いなみ町へ至る道が通る。「源平盛衰記」巻二八(源氏落燧城事・北国所々合戦事)には、寿永二年(一一八三)木曾義仲に従って平家軍と戦った越中国住人の一人として石黒太郎光弘の舎弟福満五郎を記す。当地には石黒氏の居城があった。文明一三年(一四八一)二月一八日福満(福光)城主石黒右近光義は医王山衆と結んで井波瑞泉ずいせん寺の一向衆徒攻撃のために福満を発った。だがその留守に石黒氏旧家臣坊坂四郎左衛門の手引で押寄せた加賀一向一揆の攻撃を受け、城・町とも焼払われた。本拠地を失った石黒勢は敗走、石黒氏滅亡後福満を含む山田やまだ川以西は土山どやま(のちの勝興寺)支配下に入ったという(闘諍記)。天文年中(一五三二―五五)には善徳ぜんとく(のち城端善徳寺)円勝が山本やまもと里から福満へ寺基を移し、永禄年中(一五五八―七〇)祐勝のとき城端へと移った(「善徳寺由緒略書」善徳寺文書など)

元和五年(一六一九)の家高新帳には「ふくミつ」とあり、広瀬組に属し役家数二五、続いて「ひこ様方内給人方」の役家数は二六と記される。正保郷帳では高一千八一〇石余、田方一一六町六反余・畑方四町。水損所と注記される。慶安四年(一六五一)には当村のうち三〇石分が福光新町として分立した。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千八三二石、免五ツ六歩、小物成は油屋役六匁。草高のうち三一九石が正徳三年(一七一三)検地引高となる(三箇国高物成帳)。寛文三年の川西家高付帳(川合家文書)によれば福光村惣左衛門組に属し、役家数四四、うち二は村肝煎家、ほかに寛永一九年(一六四二)追出百姓分一一、一軒は十村役。寛政四年(一七九二)には三清元組に属し、百姓家数一四六・頭振家数二三〇、惣人数一千九二二、馬三・牛九、肝煎喜兵衛、組合頭宇右衛門・又吉などとなっている(「三清元組覚帳」同文書)。文政八年(一八二五)時および天保一〇年(一八三九)以後は石黒組に属した。

福光村
ふくみつむら

[現在地名]三潴町福光

やま川下流右岸に沿い、東は岩古賀いわこが村、北は壱町原いつちようばる村。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「ふくミつ村」とみえ、高五八九石余・葭方五石余。本高は七一〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高一千五〇石余・役高八一二石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高八二三石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田三六町三反余・開田一三町四反余・畑田二〇町八反余・畑六反余・居屋敷七反余。旧高旧領取調帳の高一千三五五石余。早稲米が特産で、六月に献上した(元禄八年「郡中品々寄」県史資料九)。延宝五年(一六七七)福光組大庄屋作右衛門(内田氏)は早稲米を例年どおり江戸に献上している(古代日記書抜)。当村に居住する福光組大庄屋内田氏は天正四年(一五七六)に西牟田鎮豊から野百姓の支配権を与えられ、慶長年間(一五九六―一六一五)に大庄屋職に就任したという(旧家由緒書)

福光村
ふこうむら

[現在地名]会津本郷町福重岡ふくえおか

会津盆地南部の山麓にあり、南・西と北を山に囲まれた湾形の土地に住居が集まっている。東はつぶらおか村。「ふくこう」「ふっこう」とも発音する。もと福光寺村と称したが、寛文年中(一六六一―七三)寺の字を省いて福光村とした(新編会津風土記)。「会津風土記」に福光とみえる。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高三五八石余。化政期の家数二五(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報