長浜郷(読み)ながはまごう

日本歴史地名大系 「長浜郷」の解説

長浜郷
ながはまごう

神流かんな川右岸の現上里町長浜付近一帯から神川かみかわ四軒在家しけんざいけ辺りに比定され、丹党長浜氏の名字の地とされる。文永三年(一二六六)一二月一一日の関東下知状(税所文書)によると、鎌倉幕府は「賀美郡長浜郷内赤洲村内田陸段・在家壱宇」などを税所広幹に安堵しているが、これらは弘長三年(一二六三)三月七日に由良経氏と和与分割したものであった。南北朝期の長浜氏の活躍は「太平記」に詳しく、長浜光経は新田義貞に従軍して元弘三年(一三三三)に鎌倉の北条氏を攻めた(同書巻一〇)

長浜郷
ながはまごう

和名抄」所載の郷。東急本に「奈加波万」と訓ずる。長浜の地名は「和名抄」以外にはみえず、きわめて位置比定の困難な郷の一つとなっている。七尾南湾東岸の長浜浦に注目して、現七尾市大田おおた町・三室みむろ町付近にあてる説(日本地理志料)、七尾西湾南岸の田鶴浜たつるはま町の田鶴浜白浜しらはま付近にあてる説(能登志徴)、七尾北湾西岸の中島なかじま田岸たぎしから穴水あなみずうら付近に至る海岸線とする説、中島町長浦ながうらに想定する説(三州志)などがある。これらの説の多くは「万葉集」巻一七所収の大伴家持の歌にみえる長浜湾と関連させて論を展開している。天平二〇年(七四八)越中守大伴家持が能登巡行に際し、「珠洲郡より発船して治布に還りし時に、長浜の湾に泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌一首」として「珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の湾に月照りにけり」と詠じたもので、家持の能登巡行が出挙督励にあったという点を考慮すれば、珠洲すず郡から外浦の海域を航行するのは不自然なので、「能登志徴」のように、長浜湾を長浜郷と分けて現富来とぎ中浜なかはま付近に設定する必要はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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