長崎路(読み)ながさきじ

百科事典マイペディア 「長崎路」の意味・わかりやすい解説

長崎路【ながさきじ】

九州における近世幹線道で,長崎街道ともいう。豊前大里(だいり)から小倉,筑前黒崎(くろさき),肥前田代(たしろ),肥前轟木(とどろき)・神埼・佐賀・牛津小田・諫早(いさはや)・矢上など14宿を経て幕府領の日見(ひみ),長崎に至る脇街道。開設時期は1610年代以降とみられ,鎖国令ののち長崎奉行以下幕府役人や諸大名,内外の文人商人などの通行が盛んになるに伴い,整備され賑わった。佐賀藩領内では3筋に分かれていた。長崎に滞在していたドイツの医学者ケンペルによると,沿道は清潔で,道には新しい砂が敷かれ,〈望み得る限りの良路〉であったという。
→関連項目飯塚[市]牛津[町]嬉野[町]大町[町]神埼[町]武雄[市]

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改訂新版 世界大百科事典 「長崎路」の意味・わかりやすい解説

長崎路 (ながさきじ)

江戸時代,豊前大里から小倉,さらに筑前黒崎以下の6宿(筑前六宿)を経て,肥前対馬藩領田代を通過し,佐賀藩領轟木(とどろき),神埼,佐賀,牛津,小田,諫早(いさはや),矢上など14宿を経由して,天領の日見,長崎にいたる九州第一の幹線。上記は1648年(慶安1)段階のコースであるが,年代の下降とともにコースに多少の変更があり,例えば1787年(天明7)佐賀藩領を通る長崎路は,小田から多良,塩田彼杵(そのぎ)の3通筋があったように,同一年代に3コースが並存するなど,特異な街道であった。起点については,大里,小倉の両説があり,開設時期も1610年代以降とみられ,30年代後半の島原の乱や鎖国令以降,長崎奉行以下の幕府役人や大小名,カピタン,文人,商人らの通行が盛んになるに伴い,隆盛の一途をたどった。ケンペルによれば,90年代の長崎路は,〈沿道は総て清潔,且つ平均,地上に新しき砂を敷きたるものにして,これを要するに望み得る限りの良路なりき〉という水準に達していたが,これは街道・宿駅に関する藩営的性格の顕著さを表現するものである。
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