デジタル大辞泉
「丸山」の意味・読み・例文・類語
まるやま【丸山】[地名]
長崎市の遊郭のあった所。遊里は江戸初期に始まり、京の島原、江戸の吉原、大坂の新町と並んで繁栄した。
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丸山
まるやま
旧袋川右岸、同川と円護寺川の合流点南側に位置する独立小山。標高八五メートル。西方で千代川と旧袋川が合流する。
〔戦国期〕
鳥取城の出城として丸山城が築かれていた。天正七年(一五七九)と推定される一〇月八日の吉川元長書状(吉川家文書)に「鳥執丸山」とみえ、同書状によれば羽衣石城(現東郷町)城主南条元続が織田信長方につき、毛利方に反旗を翻しており、元長は丸山城は今のところ守りは固いが数日の籠城の用意しかなく、心もとないとしている。同九年羽柴秀吉の出陣を聞いた吉川経家らは援軍を要請、当城には境与三右衛門が派遣され(寛永二一年「山県長茂覚書」同文書)、次いで賀露と鳥取との中間にある山城の当城に山県左京進も派遣されることとなり(三月二〇日「吉川経家書状」同文書)、結局当城には塩冶周防・佐々木三郎左衛門・奈佐日本助、加番として山県左京・堺(境)与三右衛門のほか近習衆の小石見衆・舟手衆・中間衆などが籠城することとなった(前掲山県長茂覚書)。
丸山
まるやま
[現在地名]佐倉市弥勒町
町組の南東に位置する城外の侍屋敷地で、台地上に立地。北は成田道に沿う肴町。もとは鏑木村のうちであった。大久保忠朝時代には空地であったが(「佐倉絵図」小田原市立図書館蔵)、松平乗邑時代には足軽小屋があった(「佐倉城絵図」篠丸家蔵)。「古今佐倉真佐子」によると、畑中の松山を丸山といい、春か秋に同地で晴天一〇日を祈願して芝居を行ったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
丸山【まるやま】
長崎市街東部の一地区。1642年遊廓となり,京都島原,江戸新吉原(吉原)と並び称された。延宝年間轡(くつわ)(遊女屋)103軒,遊女766人,うち太夫127人を数え,貞享〜宝永年間最盛期を迎えた。遊女は出島への出入りを許され,安政開港後は他の外国人居留地へも出向いた。頼山陽,向井去来,蜀山人らの文人,坂本竜馬,高杉晋作らも訪れた。ドゥーフの愛人瓜生野(うりゅうの),シーボルトの愛人其扇(楠本タキ)は最も名高い引田(ひけた)屋の名妓であった。
→関連項目唐来参和|遊郭(廓)
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丸山
和歌山県田辺市、天神崎の沖合約0.1km、田辺湾口に位置する無人島。島頂には1996年に役目を終えた丸山灯台がモニュメントとして残る。
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