野見宿禰
のみのすくね
古代の伝承上の人物、土師連(はじのむらじ)の祖。土師弩美宿禰(はじののみのすくね)とも記す(播磨国風土記(はりまのくにふどき))。『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇7年7月条に、出雲(いずも)国(島根県)の人で、召されて当麻蹶速(たいまのけはや)と角力(すもう)をとり、これを殺して天皇に仕えたとあり、同32年7月条には、皇后日葉酢媛(ひばすひめ)の葬に際し出雲の土部(はじべ)を率い初めて埴輪(はにわ)をつくったとある。同様の伝承は『続日本紀(しょくにほんぎ)』『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』『日本三代実録』にもみえ、『播磨国風土記』の土師弩美宿禰の墓山の話とあわせ、いずれも喪葬にかかわった土師氏の職務の起源を説いたものである。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によれば、野見宿禰は出雲臣(おみ)の遠祖天穂日命(あまのほひのみこと)の14世孫で、その名は『出雲国風土記』飯石(いいし)郡条に記す「野見」の地名によっている。
[加藤謙吉]
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野見宿禰
力士の始祖と伝える人物。『日本書紀』によると,強力を誇る当麻蹶速に対抗できる者として出雲国から召し出される。垂仁天皇7年7月7日,蹶速を蹴り殺して勝ち,そのまま宮廷に仕える。のち,埴輪を考案して殉死の悪習に代えて墳墓に立てることを提言する。その功績により一族は土師氏を名乗り,葬送関係の諸事を司ったという。奈良県の三輪山北方には野見宿禰を祭るという相撲神社と称する祠があり,その辺りを両雄対決の場と伝える。しかし蹶速との一件は相撲そのものの起こりというよりも,毎年宮中行事として7月7日に催される相撲節会の由来を語る話である。<参考文献>西郷信綱「ノミノスクネ考」(『文学』4巻1号)
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野見宿禰
のみのすくね
アメノホヒノミコト 14世の孫。『日本書紀』によれば垂仁天皇7年,天皇の命により当麻蹶速と相撲をとるために出雲から大和に出,蹶速の腰を踏み折って勝ち,蹶速の故地をことごとく賜わったという。また同 32年皇后日葉酢媛命の死にあたって殉死の禁が発せられると埴輪をもって殉死に代える案を献言して嘉納され,土師職に任じられて姓を土師臣 (はじのおみ) と改めたという。
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のみ‐の‐すくね【野見宿禰】
垂仁天皇の頃の人で、
当麻蹴速(たいまのけはや)とともに相撲取りの祖と伝えられる。出雲の人。垂仁天皇の命によって当麻蹴速と力くらべをし、蹴殺して勝った。また、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命
(ひばすひめのみこと)の薨去に際し、殉死の代わりに
陵墓に埴輪を立てることを進言し、土部臣
(はじのおみ)(「土師臣」とも書く)と称して、
子孫は天皇家の喪葬の儀をつかさどった。
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野見宿禰 のみのすくね
「日本書紀」にみえる土師(はじ)氏の祖。
埴輪(はにわ)と相撲の創始者といわれる。出雲(いずも)の勇士で,垂仁(すいにん)天皇によびだされて当麻蹶速(たいまの-けはや)と相撲をとって殺した。また皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の死去の際,慣習であった殉死者のかわりに土部(はじべ)に埴輪をつくらせ,献上したという。土師弩美(はじののみの)宿禰とも。
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野見宿禰【のみのすくね】
《日本書紀》の伝承上の人物。出雲の人。剛力無双で当麻蹶速(たいまのけはや)と力くらべ(相撲の初めとされる)をして勝ち,蹶速の土地を与えられた。垂仁天皇の皇后日葉酢媛(ひはすひめ)命の死に際し,当時の殉死の悪風を埴輪(はにわ)に代えることを献言,功によりのち土部臣(はじのおみ)の姓を称するようになったという。子孫土師連(むらじ)は皇室の喪葬を担当。
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デジタル大辞泉
「野見宿禰」の意味・読み・例文・類語
のみ‐の‐すくね【野見宿禰】
日本の伝説上の人物。天穂日命の子孫。垂仁天皇の命により、当麻蹴速と力を争って勝ち、相撲取りの祖とされる。また、皇后の死に際し、殉死の代わりに陵墓に埴輪を立てることを進言し、土師臣と称して、子孫は天皇家の葬儀をつかさどった。
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野見宿禰
のみのすくね
記紀による伝承上の人物
土師 (はじ) 連の始祖とされる。垂仁天皇の皇后が死んだとき,殉葬する人のかわりに埴輪をつくるよう建言したという。
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のみのすくね【野見宿禰】
力士の始祖とされる人物。《日本書紀》垂仁天皇7年7月7日条に野見宿禰と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲譚がある。大和の当麻に蹶速という強力の人がおり,ならびなき天下の力士を誇っていた。天皇はこれを聞き,蹶速に匹敵する人を求めたところ,出雲より野見宿禰が召し出されて両者の力くらべが行われた。結果は野見宿禰が蹶速の肋骨,腰を踏みくじいて勝ち,以後野見宿禰は宮廷に仕えることとなる。以上は古代宮廷の年中行事で7月7日に行われた相撲節会(すまいのせちえ)の起源説話である。
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世界大百科事典内の野見宿禰の言及
【形象埴輪】より
…さらにその対象によって細分すると,人工物をかたどったものに家形(いえがた)埴輪,器財埴輪があり,自然物をかたどったものに動物埴輪,人物埴輪がある。 形象埴輪の起源について,《日本書紀》には,垂仁天皇の時に野見宿禰(のみのすくね)が人馬および種々(くさぐさ)のものの形の埴輪を作って陵墓に立て,殉死に代えたことにはじまると記している。しかし考古学的研究によると,形象埴輪としては器財埴輪や家形埴輪が先行して4世紀にあらわれ,鳥形埴輪がこれにつづき,馬形埴輪や人物埴輪はおくれて5世紀以降に出現したことが判明している。…
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