日本大百科全書(ニッポニカ) 「相撲」の意味・わかりやすい解説
相撲
すもう
2人が押し合い、突き合い、組み合って、力技(ちからわざ)によって行う個人競技の一種。スポーツ競技としては、俵で円形に築いた土俵(相撲場)の中で、裸に回し(褌(みつ))を締め、素手で、ルールに従って、2人が倒し合いや出し合いをして勝敗を争う競技。農耕民族である日本人が、豊作に感謝し、五穀豊穰(ほうじょう)を祈願する神事から生まれたものといわれる。日本を代表する格闘技でプロの大相撲とアマチュア相撲の二つがある。ほかに古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲、祭礼に行われる奉納相撲、子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)などがある。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
相撲の歴史
相撲のおこり
相撲に類するスポーツは、世界各国で大昔から行われていた。たとえば、5000年前の古代バビロニアのカファジェの遺跡からは、取り組んだ姿の人形の青銅置物が発見され、また2500年前エジプトのナイル川横穴にある壁画には、相撲かレスリングのような絵画がたくさん描かれている。さらに、ほぼ同時代のインドでは、悉達多(しっだるた)太子(釈迦(しゃか)の幼名)が相撲に勝って姫を得たことが、釈迦一代記の『本行経(ほんぎょうきょう)』にみえる。この経本を409年にインド人が漢訳したとき、梵語(ぼんご)のゴダバラを「相撲」という新語で表現し、これが6世紀中ごろ日本に伝来すると、以前からあった「争い」「抵抗」などを意味する大和(やまと)ことばの動詞である「すまふ」に当てはめ、やがて「すまひ」の名詞に変化し、のちに音便化していまの「すもう」になった。
日本でも現在の相撲に似た力技が古くから行われていたことは、古墳時代の遺跡から出土した「須恵器」にかたどられた相撲人形(島根県浜田市出土)によっても知ることができる。神話・伝説としては、神代の「国譲り」の争いが、建御雷神(たけみかづちのかみ)(武甕槌神)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力比べによって解決したことが『古事記』にあり、『日本書紀』には、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べの伝説が記されているが、これは垂仁(すいにん)朝のころとあるから、考古学上ではほぼ4世紀前期の古墳時代に相当する。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
神事相撲
民俗学上すでに弥生(やよい)時代の稲作文化をもつ農民の間に、五穀豊穰の吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされているが、このように相撲は、ただ単に力比べのスポーツや娯楽ではなく、本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、642年(皇極天皇1)古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。農村における秋祭の奉納相撲も、その名残(なごり)の伝承である。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
相撲節会
飛鳥時代に続き奈良時代の宮廷でも、相撲が行われたことは、『続日本紀』にみられる。すなわち、元正天皇の養老3年(719)の条に、初めて抜出司(ぬきでのつかさ)という、相撲人(すまいびと)(力士)を選抜する官職が設置されたとある。
ついで神亀(じんき)・天平(てんぴょう)年間(724~749)に、聖武天皇は諸国の郡司に、相撲人を差し出すように勅令を出し、この命令に違反するものには厳罰を与えた。そして宿禰、蹶速の相撲伝説が7月7日であるところから、七夕(たなばた)祭の余興に相撲を観覧することが恒例となった。天皇が相撲をご覧(天覧)になった記述は、734年(天平6)7月7日が初めであるが(『続日本紀』)、それ以前から催す風習が伝承していたことは、相撲に関するいろいろの記述から推察される。
奈良末期から催された余興相撲が端緒になって、平安時代に入ると天覧相撲はますます盛大になり、弘仁(こうにん)年間(810~824)には、宮中儀式の相撲節会(すまいのせちえ)という独立した催しに発展する。これは、中国の唐朝の儀式をまねたなかに、日本の農業生産に伴う相撲が取り上げられたものであるが、905年(延喜5)に至り、相撲節会は宮中の重要な儀式である三度節(さんどせち)(射礼(じゃらい)・騎射(うまゆみ)・相撲)の一つに定められ、その催しは、豪華絢爛(けんらん)たる王朝絵巻を繰り広げて、その壮麗さは『江家次第(ごうけしだい)』などに詳しい。こうして、太古のころから各地の農民の間で年中行事化していた神占いの神事相撲が、宮廷において国々から相撲人を召し集め、相撲をとらせる相撲節会という大規模な国家的年占いに発展した。
相撲節会は、天皇が宮廷において相撲をご覧になり、相撲に付随した舞楽を演技させ、貴族や上級臣下と宴を開く相撲大会の儀式で、「召合(めしあわせ)」といった。現在の相撲と違って、土俵と行司役がなく、すべて官吏によって運営された。相撲人は左・右の近衛府(このえふ)から1人ずつ出場し、15~18番の取組があり、勝数を合計して多いほうの左近衛(さこんえ)か右近衛(うこんえ)を勝ちとした。召合は1日だけの催しではあったが、大会に関係する者はおよそ三百数十人、美々しく行列を練り、紫宸殿(ししんでん)の庭に参入した。この本大会の召合のほか、臨時相撲、抜出(ぬきで)相撲(選抜戦)、追(おい)相撲(召合のとき預かりとなった同士、また疑わしい勝負の者を取り直しさせた相撲)、内取(うちとり)(召合前の稽古(けいこ)相撲)などがあり、また、天皇が幼少のときに催されて、子供同士が対戦する童(わらべ)相撲などの天覧相撲もあった。
相撲節会は規模の盛衰、ときには天災地変のため中止することもあったが、約300年の間、三度節の一つとして毎年のように催されていた。王朝が衰微した高倉(たかくら)天皇の1174年(承安4)を最後に廃絶してしまったが、この長い年月にわたる王朝相撲の繁栄は、日本文化史上に大きな意味をもち、またこの間に、実技においても今日の相撲とほぼ同一の洗練された内容が形成された。ただし、当時は土俵がなかったから、現在のような、外へ相手を出す技はなかった。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
武家相撲
源氏・平氏の争覇以後、政権は武士階級に移り、相撲は戦場における実戦用の組み打ちに必要な武術として、平時はもとより陣中においても鍛練された。曽我(そが)兄弟の仇討(あだうち)の原因となった、河津三郎(かわづさぶろう)(1145―1176)と俣野五郎(またのごろう)(?―1183)の相撲は、源頼朝(よりとも)の前で取り組んだ余興相撲であったが、これは相撲節会の儀式が絶えてからわずか2年後の1176年(安元2)のことである。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)において、しばしば神事を兼ねた上覧相撲を催したことが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に詳しく記されている。ところで、1257年(正嘉1)の将軍家(宗尊(むねたか)親王)の上覧相撲を最後に、これまで支配階級が維持してきた儀式中心の相撲は、鎌倉末期から室町時代を通じて約300年間行われなかった。
室町後期になると、都会では土地相撲の集団が半職業的におこった。まず京都・伏見(ふしみ)に発生し、戦乱の収まった地方を巡業して歩くようになるが、これは後世における勧進相撲の初源的な形態といえる。同時に、民衆の相撲熱も盛んで、辻(つじ)相撲、草相撲などが行われ、これを物語るように当時の能狂言には「大名と相撲」を主題にしたものが多く、現在にも伝わっている。
戦国時代には、相撲は武術として鍛練されるようになる。なかでも織田信長は、1570年(元亀1)から12年間、毎年多数の力士たちを集め、安土(あづち)の城などで上覧相撲を開いたことが『信長公記(しんちょうこうき)』に詳しい。この上覧相撲は相撲史上、画期的な催しであった。このとき勝敗を裁決し、相撲大会を進行させる役目の行司(行事とも書いた)が初めて出現したのである。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
勧進相撲
江戸時代になって江戸幕府が開かれると、京都、大坂で失業した浪人者を交えた職業力士の相撲集団が、神社の祭礼の際村人に雇われて、土地相撲を交え勧進相撲を興行することもあった。勧進とは本来、神社仏閣の建立・修繕、橋の架け替えなどの資金に寄付を勧めることであり、職業相撲が神社の境内で行われた。のちには勧進本来の意味を離れて生活のための営利的な興行をするようになり、江戸初期には、このような相撲集団が各地に続々とできてきた。一方、都会の盛り場に投げ銭目当ての辻相撲が大流行した。まだ職業相撲としての制度や組織がなかったため、興行を主催する浪人者の勧進元の力士(元方(もとかた))と、寄せ集めた侠客(きょうかく)を交えた側の力士(寄方(よりかた))の間に、つねに喧嘩(けんか)騒動が付き物であった。そこで幕府は1648年(慶安1)から江戸、京都、大坂の三都に、勧進相撲と辻相撲の禁止令をしばしば出したから、約30年間は停止状態になったが、民衆の相撲熱は衰えず、禁止令が緩むと辻相撲がまた盛んになってきた。
職業相撲で生活していた力士集団は、禁止令の打開策として、力士たちを監督し取り締まる有力者を選び、興行の責任者として奉行所(ぶぎょうしょ)に勧進相撲許可を申請する一方、騒動の原因となる相撲作法の乱れを正して勝負のきまり手(四十八手)、禁じ手を成文化すると同時に、相撲場に初めて境界線を設けることになった。これまでは人形屋(ひとかたや)(人方屋)といって、取り組む場所を力士たちが円形の人垣で囲み、その中に倒すか外側に押し出せば勝ちとした。そのため、けが人が生じて争乱を引き起こす原因ともなったので、人垣のかわりに土を詰めた五斗俵を地上に置き、初めは四角、のちには円形に並べて、これを相撲場の境界線とすることを考案した。このようすは寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)年間(1661~1681)の相撲絵画にみられる。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
江戸相撲
江戸時代の芸能が、すべて京坂で熟して江戸へ下ってきたように、相撲も江戸後期に入る宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)年間(1751~1772)になって、その中心勢力はしだいに幕府のある江戸に移り、大名抱え力士も師匠の相撲部屋に所属して訓練されていった。この部屋を統率したのが江戸相撲会所で、制度組織を整備し、年寄(親方)たちによる運営を行い、名実ともに全国の組織を中央化した天明(てんめい)・寛政(かんせい)年間(1781~1801)にその全盛期を迎える。
この時期は田沼時代を経て松平定信(さだのぶ)の「寛政の改革」が行われ、それに伴う幕府の尚武気風の奨励が、いっそう民衆の相撲熱を高めた。1791年(寛政3)には江戸城で将軍家斉(いえなり)の上覧相撲が初めて催され、谷風、小野川、雷電らの力士が活躍して相撲史上空前の繁栄をみるようになる。江戸相撲は年2回、1月から4月までの春場所、10月か11月の冬場所が市中の神社境内で催され、その間は4、5組に分かれて巡業し、夏には京坂で合併大相撲を興行した。大坂、京都にもそれぞれ相撲会所があり、毎年夏ごろに江戸相撲を迎えて番付を編成し、京坂力士は江戸幕内力士の下位に名を連ね、実力のある者は江戸相撲に加入して名をあげることを競った。このように江戸中期から発達した勧進相撲は、江戸後期の100年間に職業相撲として完備した組織のもとに隆盛を続けた。今日の大相撲は、この江戸勧進相撲の継承であるということができる。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
明治~第二次世界大戦前
明治維新による幕藩体制の崩壊により、力士は大名の保護から離れ、相撲界は急速に進む欧化主義の圧迫を受けて沈滞した。明治政府は「相撲は野蛮な裸踊り」ときめつけ、禁止令が出されそうな状況になったが、西郷隆盛(たかもり)、黒田清隆(きよたか)の援助で断髪令の免除、禁止されていた女性の見物が許されるなどがあって、ようやく存在を保った。1873年(明治6)高砂浦五郎(たかさごうらごろう)(1839―1900)が相撲会所に改革を迫ったのが契機となって、1886年組織が改正され、3年後、相撲会所は東京大角力(おおずもう)協会と名を改めて発足した。一方、明治天皇の天覧相撲がしばしば催され、長い沈滞期を抜け出して、しだいに回復の兆しがみえ始めた。
ついで日清(にっしん)・日露の戦勝とともに、相撲は好況の波にのり、1903年(明治36)常陸山(ひたちやま)、梅ヶ谷(2代)が出て、明治末期には寛政の盛時を思わせる「梅・常陸時代」を現出した。1909年相撲常設館として東京・両国に国技館が開設され、これを機に諸制度が改革された。東西優勝制度に伴う優勝旗、個人優勝掲額も新設され、翌1910年には行司の裃(かみしも)姿は烏帽子直垂(えぼしひたたれ)に改められた。
大正時代に入ると、古風な四つ相撲は近代的なスピード相撲に変わり、大錦(おおにしき)(1883―1943)、栃木山(とちぎやま)、常ノ花(1896―1960)らの頭脳的、合理的な押し相撲、技能相撲に技が進歩した。一方、1923年(大正12)9月の関東大震災のため相撲協会は負債に苦しみ、世間の不景気は力士らの生活を脅かした。1925年に摂政宮(せっしょうのみや)(昭和天皇)の御下賜金で優勝賜杯(天皇杯)がつくられ、個人優勝制度が確立したが、これを機会に、長年の懸案であった大阪大角力協会との合併案がまとまり、同年12月には財団法人大日本相撲協会が設立された。大阪相撲が東京に吸収された正式の合併興行が1927年(昭和2)1月に開かれて、一時衰微した相撲も復興の兆しがみえたやさき、1932年、力士待遇改善をめぐって春秋園事件(天竜事件)が起こった。脱退した力士たちは大阪で関西角力協会を旗揚げしたが、1937年同会は解散して事件は終わった。このころから不世出の英雄といわれる双葉山(ふたばやま)(先代時津風(ときつかぜ))が出現して、破竹の勢いで勝ち続け、たちまち大関、横綱と昇進、1939年春場所4日目安芸ノ海(あきのうみ)(1914―1979)に敗れるまで69連勝という大記録を樹立した。当時、相撲界は軍国調の時流にのって黄金時代を謳歌(おうか)し、興行日数も15日間と延長された。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
第二次世界大戦後の相撲
第二次世界大戦後は、急速に盛んになった野球の人気に押されて、相撲界の立ち直りは遅かった。国技館は進駐軍に接収され、興行場所は転々としていたが、1950年(昭和25)1月から東京・蔵前(くらまえ)を本拠にし、1954年蔵前国技館が完成。その前年5月に開始されたテレビの実況放送が、復活した相撲熱に拍車をかけた。そして、1958年には、これまでの東京、大阪、九州に加えて名古屋場所が本場所とされ、年間6場所を興行する好況時代に入った。この間、1952年の土俵からの四本柱の撤廃、1957年の力士の月給制など、観客サービスおよび相撲界の改革も実行された。1952年から始まる栃錦(とちにしき)・若乃花のいわゆる「栃若時代」に続いて、1961年の柏戸(かしわど)・大鵬(たいほう)の「柏鵬時代(はくほうじだい)」をピークに、力士のサラリーマン化はしだいに相撲内容の低下を招く傾向をみせたが、1973年、学生相撲から角界入りした輪島が横綱に昇進、大関貴ノ花(たかのはな)(1950―2005)とともに人気を集めた。1974年武蔵川(むさしがわ)(1909―1987)理事長の後を受けて名横綱栃錦の春日野(かすがの)親方が理事長に就任して、土俵刷新に大きな期待が寄せられた。同年7月の名古屋場所後、北の湖(きたのうみ)が横綱に栄進した。
1970年代後半の土俵は、北の湖と輪島の「輪湖(りんこ)時代」、1980年代は千代の富士、隆の里(たかのさと)(1952―2011)の対立に移ったが、その間にハワイ出身の巨漢小錦(こにしき)(1963― )が活躍して土俵を沸かし、北の湖、若乃花(2代)(1953―2022)らの「花の28組(にっぱちぐみ)」(昭和28年生まれ)にかわり、小錦、北尾(きたお)(1963―2019)、保志(ほし)らの「38(さんぱち)組」が進出してきた。大関には北天佑(ほくてんゆう)(1960―2006)、若嶋津(わかしまづ)(1957― )、朝潮(4代)(1955― )、大乃国(1962― )、北尾が昇進し、北の湖の1985年1月限り引退の穴を埋めるべき横綱取り争いが熾烈(しれつ)であったが、1986年名古屋場所の結果、北尾は横綱(双羽黒(ふたはぐろ))に、保志は大関(北勝海(ほくとうみ))に昇進した。その後、北勝海、大乃国、旭富士(あさひふじ)(1960― )が横綱となっている。春日野理事長は、JR両国駅近くに新国技館を建設することを決め(1985年完成)、1986年初場所から国技館が40年ぶりに蔵前から両国に戻った。
1990年代に入ると若手の台頭が顕著となった。1991年(平成3)5月、2代目貴乃花(たかのはな)(当時貴花田)が横綱千代の富士を破って引退に追い込み、旭富士、北勝海も千代の富士の後を追うように引退、横綱不在時代が現出した。1993年、ハワイ生まれで、アメリカ国籍の曙(あけぼの)が、史上初めて外国人として横綱に昇進した(その後日本に帰化)。曙と同期の2代目貴乃花も1994年横綱に昇進、「曙貴(あけたか)時代」を迎えた。また貴乃花の兄、3代目若乃花が1998年横綱に昇進、兄弟横綱の誕生として話題となった。1999年ハワイ出身の武蔵丸(むさしまる)が横綱昇進。2000年(平成12)若乃花、2001年曙、2003年貴乃花、武蔵丸が引退。2003年モンゴル出身の朝青龍(あさしょうりゅう)が横綱に昇進した。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
朝青龍は抜群のスピードと粘り、強烈な勝負根性で他の力士を圧倒し、史上初の7連覇など優勝回数は歴代4位の25回を達成したが、知人に対する暴行事件で2010年に引退。朝青龍としのぎを削った同じくモンゴル出身の白鵬(はくほう)(1985― )は左右どちらの四つでも取れる本格派の横綱相撲で、2019年(令和1)7月時点で優勝42回(うち全勝優勝15回)、幕内通算1038勝、横綱通算844勝、年間最多勝10回はいずれも歴代1位の記録を達成した。連勝記録も双葉山の69に次ぐ歴代2位の63で、その他ほとんどの歴代記録を塗り替えた。2011年に八百長事件で同年3月場所は中止となり、大相撲が存亡の危機にたたされた際もひとり横綱として角界の屋台骨を支えた。白鵬に続いてモンゴル出身横綱の日馬富士(はるまふじ)(1984― )(2017年引退)は優勝9回、鶴竜(かくりゅう)(1985― )も優勝6回を記録。平成後半以降、モンゴル勢が国技の土俵を席巻し続けている。そのため日本出身の優勝力士は2006年初場所の大関栃東(とちあずま)(1976― )を最後に、2016年初場所の大関琴奨菊(ことしょうぎく)(1984― )が初優勝を飾るまで10年間出なかった。それでも白鵬を63連勝で止めた稀勢の里(きせのさと)(1986― )は2017年初場所に初優勝を果たし、横綱昇進、大相撲人気を高めたが、2019年に引退。ポスト稀勢の里の日本出身力士として御嶽海(みたけうみ)(1992― )、貴景勝(たかけいしょう)(1996― )、朝乃山(あさのやま)(1994― )がそれぞれ初優勝し、台頭してきたが、まだ白鵬らモンゴル勢の壁は越えられていない。
[徳増信哉 2019年12月13日]
角界の現況・故実
相撲の運営
明治末ごろから国技とよばれてきた相撲は、日本相撲協会によって維持・運営されている。協会の運営は、力士を引退して年寄になった者だけがその任にあたり、相撲競技の興行は、年寄と力士、行司、呼出し、床山(とこやま)、若者頭(がしら)、世話人などの協力によって進行され、それぞれの立場には細かい規則が定められている。役員は年寄のなかから選ばれるが、理事・副理事は立候補制で、単記制により互選される。また勝負検査役は審判委員と改称され、理事長は理事によって互選される。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
年寄襲名
十両以上の力士が引退したあと、年寄(評議員という)の定員105人に欠員のあった場合には、その名跡を相続(襲名)することができる。本来は師匠から養子縁組した弟子に無償で譲られるものであるが、近年は年寄名跡の「年寄株」を買い取ることが多い。なお、協会は、横綱は引退後5年間、大関は2年間、また現役時代の実績により、準年寄の名で、年寄株のないものも協会に残ることを認めるようになった。年寄は満65歳が定年で引退する。なお2014年(平成26)に、希望する親方に限り定年後も70歳まで再雇用することが定められた。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
相撲部屋
力士の養成所のことで、略して部屋という。入門した力士はどこかの部屋に所属していなければならない。相撲部屋は力士を引退した年寄が経営し、弟子を養育する養成費は協会から支給される。なお、本場所では同じ部屋同士が取り組まない規定になっているが、優勝決定戦になった場合は対戦する。かつては同じ一門の力士も対戦しなかったが、1965年(昭和40)初場所から部屋別総当り制が導入された。部屋には部屋をもたない親方や行司、若者頭(がしら)、呼出しなども所属する。近年、相撲部屋での暴行事件や外国人力士をめぐるトラブルが続出したため、日本相撲協会は指導名目のいっさいの暴力を禁止し、外国人力士を「原則1部屋1人」に定めた。2019年(令和1)7月時点で、部屋の数は46部屋。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
相撲茶屋
普通、茶屋とよばれている。1789年(寛政1)ごろから、職業相撲の興行に、見物人の便宜を図って、大衆の好角家の集まりから自然発生した組織団体であった。のち相撲会所(協会)と契約をして世襲家業となった。現在も相撲協会から座席の売りさばきを大半任されており、協会は茶屋の販売経営に多く依存し、茶屋はまた観客に飲食物、土産(みやげ)物などを提供する業務によって、営業が成り立っている。東京では1909年(明治42)国技館開館のとき20軒の茶屋に整備され、その後、しだいに力士、行司関係者が多く経営するようになった。1957年(昭和32)9月に「相撲サービス株式会社」と改称、1号から20号までの番号呼称に改められた。さらに1985年1月両国に移ってからは「国技館サービス株式会社」と改めたが、一般には旧称の家号でよばれている。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
本場所
1年6回開催される。すなわち1月・初場所(東京・両国国技館)、3月・春場所(大阪・大阪府立体育会館)、5月・夏場所(東京・両国)、7月・名古屋場所(名古屋・愛知県体育館)、9月・秋場所(東京・両国)、11月・九州場所(福岡市博多(はかた)・福岡国際センター)である。
入場券は、両国国技館の場合、本場所の約2か月前から公式販売サイトで、その翌週からプレイガイド系サイトで抽選予約販売が開始され、約1か月前からコンビニエンス・ストア、インターネット、電話で一般販売される。また当日券は国技館の窓口で発売される、なお土俵際の溜(たま)り席(通称、砂かぶり)は、相撲協会の後援団体からなる会員制になっているが、ごく少数席が約1か月前から抽選申込専用ダイヤルで電話購入できる。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
地方巡業
本場所の終了後に各地方の市町村へ出張して興行することで、古くは部屋一門単位にいくつにも分かれて巡業したが、現在は相撲協会が契約責任者になって、本場所同様の集団で行われている。年2回本場所興行の当時は、各部屋一門の生計のために巡業するので「稼業場所」ともいった。巡業日程は、親方が各地方の世話人(協会との密接な関係者)などによって興行希望者(勧進元)を紹介してもらい、派遣された親方によって契約が結ばれて決まる。巡業は本場所の興行する場所によって違い、たとえば、東京夏場所終了後は、関東、東北、北海道が巡業地で、巡業しながら回るので、その道筋の市町村での日程が組まれる。11月の九州場所終了後は、九州一円(四国一円を含む)という日程になる。また、海外興行も行われている。協会は、1996年(平成8)から、地方場所の自主興行への切りかえを計画、大手広告代理店を通じて、協力7社に協力金を支出してもらい、吊(つ)り屋根と土俵、枡(ます)席を本場所なみに用意した興行に踏み切った。しかし、協会内部から反対の声も出て、1998年10月の巡業から協会員による巡業が進められ、2003年(平成15)春巡業からは、勧進元制に戻された。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
弓取式
1日の取組が終わると、弓取式が行われる。幕下力士が出てきて、結びの一番の勝者にかわって行司から弓を受け、これを曲技のように振り回し、四股(しこ)を踏む。平安朝時代の相撲節会に、勝者側から弓舞いの舞人が出場して弓をとって演じたことから始まる。かつては千秋楽の最後の勝負に勝った力士に「大関に叶(かな)う」といって弓を授け、大関の代理力士が弓取式を行ったが、1952年(昭和27)1月の初場所から、毎日弓取式を舞うようになった。これが終わると、その日の興行の終わりを告げるはね太鼓がたたかれる。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
触れ太鼓
江戸時代には報道機関がなかったから、相撲興行を知らせるため、太鼓が使われた。相撲興行初日の前日に、呼出しが数組に分かれて町に出て、太鼓を打ちながら、興行が始まることを触れ歩いた。これを触れ太鼓という。明治末までは、相撲場が小屋掛けであったため、雨や雪が降ると興行が中止になり、晴天になると明日は再開することを触れ歩いた。
また、相撲場には高さ約16メートルの櫓(やぐら)が立てられ、その上で相撲興行を知らせるため太鼓をたたいた。これを櫓太鼓という。さらに力士の場所入りの時間を知らせるため、早朝から、一番太鼓、二番太鼓と階級別に太鼓をたたいた。現在でも客を呼ぶ「寄せ太鼓」、その日の興行が終わったことを告げる「はね太鼓」など、違った太鼓の打ち方があり、相撲の伝統を残している。現在は、周囲からの要望もあり、一番太鼓も午前8時以降にたたくことになった。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
相撲番付
単に番付ともいう。力士、行司をはじめ、相撲協会年寄の名などを階級別に記した一覧表で、年6回本場所初日の13日前に、相撲協会から発表される。番付の語源は、相撲節会の取組表である番文(つがいぶみ)から出たといわれる。向かって右側を東、左側を西とし、最上段が横綱以下大関三役幕内力士で、二段目は十両(正式には十枚目)と幕下が、文字の太さで区別される。三段目は三段目とよばれ、四段目は序二段、五段目は序ノ口で最下位。中央の行司欄には、立(たて)行司2人、三役格、幕内格、十両格と続く。その下は審判委員が20人。下段の東序ノ口の脇(わき)には、理事、監事、委員の役員、西序ノ口の脇に参与、主任、年寄と続く。左下に「此外中前相撲東西ニ御座候」とあるのは、番付にのらない「本中(ほんちゅう)」と「前相撲」のことであるが、現在は前相撲から本中に進む段階は省かれている。
なお、番付編成会議は本場所の終わった3日目に開かれる。審判部長のほか審判部副部長、審判委員などが出席して、本場所の成績をもとにして上位から序ノ口まで昇降の入れ替えを行う。横綱と大関と新十両の昇進のときだけは、決まりしだいただちに発表されるが、番付は次の場所前まで厳重に保管され、昇降順位は秘密にされて、師匠が弟子に漏らすことも禁じられている。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
横綱
相撲番付の最高位の階級をさす。なお、横綱の意味と内容は時代によってまったく異なり、大別して次の三つに分けられる。(1)相撲集団の組織が全国的に統制されなかった時代には、地鎮祭に出場する作法の免許、(2)綱(しめなわ)を締めて土俵入りを1人で行う資格の免許(1789~1908)、(3)大関力士で優秀な成績をあげた最強者に免許する最高地位(1909年以降)である。横綱がいまのような土俵入りの形式を行うようになったのは、江戸後期の1789年(寛政1)11月に、谷風梶之助(かじのすけ)と、小野川喜三郎の両力士に「横綱の伝」を免許してからである。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
大関・関脇・小結
大関の呼称は、寛文(かんぶん)年間(1661~1673)のころからといわれるが、現存する番付には元禄(げんろく)年間(1688~1704)からみられる。古書によれば、室町時代の強豪力士を「関」と称していた。力士が相手をことごとく破って勝ち抜いたとき、関を取るといって、関取の敬称が生まれた。関は関門の意味で、関を取って守ることを強者としたことから転化したものである。さらにこうした関取のうちの強者を、大の字をつけて最高の地位としたものである。平安時代の相撲節会当時の最高位である最手(ほて)にあたり、江戸時代になっても大関の別称を最手ともいった。
関脇(せきわけ)は、最手の次位にあたる脇からとったもので、大関の次位であるから、関の下に脇をつけて関脇となまったもの。
小結は江戸時代になってできた名称であるが、語源ははっきりしない。一説には、平安末期に、最手と脇同士の取組がないときには、役相撲でない上位の者同士が結びの一番をとったところから生まれたともいわれる。
以上の大関、関脇、小結を三役というが、横綱を含めて四役とはいわない。番付に横綱を欠くことがあっても、三役はかならず東西に必要とする内規があり、大関を欠くときには、横綱がこれを兼ねることになっていて、この際は「横綱大関」の名称を用いる。
三役を含む幕内以下は幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口の6階級ある。このうち十両以上を関取とよぶ。幕内と十両は、それぞれ前頭と頭書し、普通、平幕力士をさし、前頭何枚目という。十両は俗称で、協会では「十枚目」という。これは、幕末から明治初期のころ、幕下上位十枚目までに限って、十両以上の給金を支給し、「幕下十枚目」といって、幕内に準じた関取待遇を与えたことによる。番付面に普通の幕下と区別して肉太に書かれたのは、1888年(明治21)1月からである。最下位の序ノ口は、江戸時代には上(あが)り口の意味で上(じょう)ノ口といった。なお幕下以下序ノ口まで「同」と書いてあるが、これは初め前頭に同じという意味であった。前頭は、番付に載らない前相撲の頭という意味であったが、番付の人数が多くなったので、本来の意味は失われてしまった。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
行司
職業相撲で烏帽子装束に軍配団扇(ぐんばいうちわ)を持って相撲の審判にあたり、勝ち力士に軍配をあげ、勝ち名のりを授ける役目を行司という。織田信長のころに初めて、力士のそばにいて勝負を裁決する専門の役目ができ、当初「行事(ぎょうじ)」とも書いた。のち江戸時代になって各地の相撲集団に相撲作法(規則)と故実を伝える各流派の行司が生まれた。明和(めいわ)元年から寛政(かんせい)元年(1764~1789)のころ熊本の行司吉田追風家(おいかぜけ)が、相撲の家元として勢力をもち司家(つかさけ)と称し、以後、江戸相撲を中心に行司、力士は、故実門人としてその支配下に置かれた。
行司の家名は、現在、木村、式守(しきもり)の2家があり、最高位は木村庄之助(しょうのすけ)、次位は式守伊之助で、立行司(たてぎょうじ)という。行司の階級は軍配の房(ふさ)と衣装の「菊とじ」という紐(ひも)の色により区別される。庄之助は総紫、伊之助は紫白(紫に白まじり)、三役格は紅、幕内格は紅白、十両格は青白、幕下以下は青か黒を用いる。三役行司以上は足袋(たび)に草履(ぞうり)をはく。立行司の2人は腰に短刀をつけている。木村庄之助から序ノ口格行司まで9階級あり、定員は45人以内。木村庄之助は2015年(平成27)春場所限りで第37代目(1950―2022)が引退してから空位になっており、現在の筆頭は第41代式守伊之助(1959― )。かつて行司による行司部屋があったが廃止され、相撲部屋に所属する。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
呼出し
土俵上で行司に先だち、控えにいる力士を呼び出す役。古くは「名乗り上げ」、略して「名乗り」といって行司が勤め、これを言上行司または前行司といったが、1751年(宝暦1)ごろから行司と分離し、呼出し役になった。呼出しはこのほか土俵の構築、触れ太鼓、櫓(やぐら)太鼓、木戸口の雑用、幟(のぼり)の世話をするほか、地方巡業では小屋づくり、旅館の手配などの準備から跡始末までいっさいの雑務を引き受ける。相撲協会から給金を支給されるが各相撲部屋に所属している。1994年(平成6)から立(たて)呼出しを最高位に副立呼出し、三役呼出し、幕内呼出し、十両呼出し、幕下呼出し、三段目呼出し、序二段呼出し、序ノ口呼出しの9階級制となり、定員は45人。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
床山
力士の髷(まげ)を結う人で、各部屋にそれぞれ専属し、相撲協会に籍を置いて月給が支給される。関取の大銀杏髷(おおいちょうまげ)は見習いから4、5年修業しないと結べない。床山名として頭に「床」の字の付く名前を名のる。最高位の特等床山から五等床山までの6階級制で、特等床山と一等床山は番付に記載される。定員は50人以内。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
相撲博物館
1954年(昭和29)蔵前国技館が完成したときにその敷地内に開館したが、現在は両国国技館内に移された。相撲関係の資料を集め、一般に公開している。おもな所蔵品は、古書、古番付、錦絵(にしきえ)、屏風絵(びょうぶえ)、絵巻、力士遺品、相撲雑誌など。休館日は土・日曜、祝日、年末年始(東京本場所中は開館)。入場は無料。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
競技方法
競技は相撲規則(昭和33年日本相撲協会制定)によって行われる。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
相撲規則
力士は、競技順番の二番前から控え力士として土俵下に出場する。呼出しの呼上げによって、東西の中央から同時に土俵に上り、東は赤房下、西は白房下で、四股(しこ)を踏み、力水(ちからみず)(化粧水)で口をすすぎ、力紙(ちからがみ)(化粧紙)で体をぬぐい、清めの塩をとって土俵上にまき、徳俵(とくだわら)の内側に蹲踞(そんきょ)(しゃがむ)して、ちりを切る(手をすり合わせ、手のひらを広げて両腕を横にのばす)。続いて仕切り線の手前まで進み、さらに向かい合って四股を踏み、蹲踞の構えをして呼吸を整え、相手の動作にあわせて仕切りに入る。立合いの両者の呼吸があわなければ、塩をまいたのち、この動作を繰り返す。これを仕切り直しという。仕切りには制限時間があって、幕内4分、十両3分、幕下以下序ノ口まで2分以内である。
制限時間がくると、審判委員の時計係から指示を受けた呼出しと行司は、「待ったなし」を力士に告げ、行司は逆さにした軍配で表示しながら引いた瞬間に、両力士は立ち合い、技(わざ)と力を競う段階に入る。勝負の判定は、土俵内で力士の足の裏以外の体の一部が早く砂についた者、土俵外の砂に足でも体でも早くついた者が負けになる。勝負が長引いた場合には、水入りとなることもある。勝負が終わると、互いに立礼をしてから、勝者は行司から勝ち名のりを受け、敗者はそのまま引き下がる。勝負の判定は行司が主審であり、東西どちらかに軍配をさして、勝敗を明示しなければならない。行司の判定に疑問があれば、勝負審判員が「物言い」をつけ、協議のうえ多数決で決めるが、同数の場合には審判委員長は「取直し」を行司に告げる。この際、行司は表決に参加できない。1969年(昭和44)から、勝負判定にビデオテープレコーダー(VTR)を参考にするようになった。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
土俵
土俵場(ば)ともいう。土俵とは本来、相撲場を築く材料の俵のことであるが、のちに相撲をとる場所の四角四面の構築物全体をさすようになった。土俵は、まず高さ54~60センチメートルの台形に土を盛り上げる。土質は東京・荒川上流でとれる荒木田(あらきだ)という粒子の粗い粘土で、これを煉瓦(れんが)ぐらいの硬さによく突き固め、その上に砂を薄くまく。俵は、1俵の米俵を三つに分けたくらいの細長いものをつくり、その中に土と小石を詰め込み、胴なかを7か所か9か所、藁縄(わらなわ)で堅く結んだ土俵(つちだわら)を52俵つくる。土俵の外縁の四角は、四隅の1辺が5.70メートルあって、7俵ずつ正方形に囲み、あげ俵4俵、計32俵。内側の丸土俵は20俵で、直径15尺(4.55メートル)の円形に囲むが、東西南北の真ん中の俵を1俵ずつ、俵の幅だけ外側へずらしてある。この部分だけ内側が広くなっているので、この俵を「徳俵(とくだわら)」という。またこの俵と昔の外側の俵が平行して二の字の形になるので、二字口といい、力士はここから土俵に上る。この徳俵は、かつて野天で興行したとき、雨水の水はけをよくするために、丸土俵に切れ目をつけ掃き出し口にした名残(なごり)である。丸土俵は勝負を決める場所の境界線で、外側の縁の外俵は土止めのためにある。
土俵は毎場所新しく構築するので、本場所初日の前日朝10時から地鎮祭の儀式が行われるが、これは土俵祭りとよばれる。天地長久・五穀豊穰(ほうじょう)を祈願すると同時に、土俵から悪霊を払って15日間力士にけがのないように、土俵安泰を地の神に願う意味がある。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
回し
締込み(しめこみ)、褌(みつ)ともいい、取組の際締める。練習のときには雲斎(うんさい)木綿のものが用いられる。正式の取組では、取褌(とりみつ)といい、十両以上は絹の繻子(しゅす)(長さ8~10メートル)、幕下以下は雲斎木綿のものが用いられる。回しの後ろの結び目から、股(また)を通って前へ立帯になっている部分を立褌(たてみつ)といい、後ろ部分を後立褌、前を前立褌または前袋といい、いずれもつかむことは禁止されている。なお、前立褌に近い横回しを前袋と誤ってよぶことがあるが、これは前袋に近い部分という意味である。
化粧回しは、十両以上の力士が土俵入りなどの際に着ける回し。初めは膝(ひざ)のあたりまでの短いものだったが、天明(てんめい)年間(1781~1789)のころに、現在と同様の足首までの長さになった。生地は古くはビロードや羅紗(らしゃ)が使われたが、現在では博多(はかた)織、西陣(にしじん)織が主流で、裏地に金襴(きんらん)、縁飾りには金糸が使われる。重さは6~15キログラム。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
相撲の技
きまり手
勝敗を決めるときの技を「手」といい、勝負が決まった際、勝者が攻めに用いたときの技をきまり手という。きまり手は通称「四十八手」といわれ、鎌倉時代に書かれた『源平盛衰記』にこの呼称が初めて現れるが、当時は数多い手(技)の意味で、四十八手に限られた数ではなかった。のち勧進相撲の盛んになった江戸中期に、伝承された物語にある48の数に当てはめ、「投げ手」「掛け手」「反(そ)り手」「捻(ひね)り手」の4部門に分け、それぞれに基本技の12手がつくられた。さらに、これに変化技の手を加えて、四十八手の裏表(うらおもて)と称したが、実際には100手以上あった。寛文・延宝年間に、土俵が初めてできると、それまで倒すことに重点を置いた技に、相手を土俵の外へ押し倒す手も生まれ、宝暦年間(1751~1764)には168手も編み出された。そのきまり手も各地の行司の流派によって、さまざまな名称でよばれた。現在用いられている名称は、多く宝暦から寛政(1789~1801)ごろに現れ、明治・大正時代一部に変化をみた。このように百数十手もあるきまり手を、相撲協会では1935年(昭和10)に56手、1955年(昭和30)に68手、1960年に70手に整理した。2001年(平成13)に12手を追加し、現在82手と5結果(非技)となっている。
きまり手は、四つの基本技を中心に次のように分類されている。
(1)投げ手(腰を中心にしてかける技) 上手(うわて)投げ、下手(したて)投げ、小手投げ、すくい投げ、掛け投げ、など。
(2)掛け手(相手の足に自分の足を掛けるか、相手の足をとって倒す技) 内掛け、外掛け、蹴返(けかえ)し、蹴たぐり、渡し込み、小股(こまた)すくい、足とり、つまどり、など。
(3)反り手(相手のわきの下に首を入れて、後ろに反りかえって倒す技) たすき反り、掛け反り、居反り、しゅもく(撞木)反り、など。反り技は動きの早くなった近年の相撲ではあまりみられない。
(4)捻り手(腕を中心にしてかける技) 突き落し、巻き落し、上手捻り、下手捻り、外無双、内無双、頭捻(ずぶね)り、はりま投げ、かいな捻り、合掌捻り、首捻り、網打ち、など。
以上の四十八手の4部門のほかに、土俵ができてから、外に出す技で、突き出し、押し出し、寄り切り、送り出し、吊(つ)り出し、きめ出し、打棄(うっちゃ)り、割り出し、などがある。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
禁じ手
禁手(きんて)ともいう。相撲規則で、立合いのとき、または取組中に用いることを禁じられている行為で、禁じ手を用いた場合は反則負けと規定されている。
(1)握りこぶしでなぐること。
(2)頭髪を故意につかむこと。
(3)目またはみぞおちなどの急所を突くこと。
(4)両耳を同時に両手で張ること。
(5)前立褌(まえたてみつ)(前袋)をつかみ、または横から指を入れて引くこと。
(6)咽喉(のど)をつかむこと。
(7)胸、腹を蹴上げること。
(8)手の一指または二指を折り返すこと。
[池田雅雄・向坂松彦 2019年12月13日]
アマチュア相撲
素人(しろうと)相撲のことで、相撲を職業としない土地相撲、草相撲、祭礼相撲、学生相撲、少年相撲などをいう。職業相撲とは別に、体育を目的としたスポーツとして行われるようになったのは明治中期からで、講道館の嘉納治五郎(かのうじごろう)が提唱して、初めは柔道選手によって対抗競技が開催された。一方、海軍、陸軍は兵士の身体の鍛練として奨励した。職業相撲の隆盛に刺激されて、学生相撲はプロの力士をコーチに招き、基本の稽古(けいこ)をするようになり、学生相撲大会が東京および関西方面で盛んになった。関西を中心とする学生相撲は、1912年(明治45)毎日新聞社系の関西日報主催で、大阪・浜寺において初めて学生相撲大会を開催した。この大会はしだいに規模が大きくなり、ついに1919年(大正8)11月、大阪毎日新聞社主催で、第1回全国中等学校相撲大会が堺(さかい)市大浜公園で2日間にわたり開催された。翌1920年、これまで東西大学対抗戦を行っていた関東、関西の学生相撲は、それぞれ学生連盟を結成し、海軍の兵学校相撲とともに、その隆盛は一時職業相撲に劣らない人気をよんだ。
このようなアマチュア相撲の勃興(ぼっこう)は、相撲を学生の体育運動に取り入れる傾向を盛んにし、各県下の中学校まで相撲部をつくり、県大会を毎年行う一方、修学旅行を兼ねて、東京、大阪などへ遠征し、都会地の学生相撲大会へ出場するのが慣例になった。1924年の第1回明治神宮体育大会には、各地の青年団、実業団、教員、社会人などが県代表の選手として出場したが、これは地方における土地相撲から、アマチュア相撲に目を向けさせる契機となった。やがて1933年(昭和8)には全日本学生相撲連盟が組織され、大学、中学、小学校に至るまで相撲部が設けられ、ことに中学校全国大会は、甲子園における中学野球(現在の高校野球の前身)と同様に、全国的な熱狂をよんだ。この大会は1941年まで23回開催されたが、第二次世界大戦勃発のため1942年には中止された。戦時中は、小学校の学童相撲が体育の正科になるなど、国策に沿った処置がとられた。戦後は、いち早く1946年(昭和21)に日本相撲連盟が結成され、日本体育協会(現、日本スポーツ協会)の傘下に入った。ついで1951年、全日本高校相撲連盟、さらに全日本実業団相撲連盟が結成された。日本相撲連盟は各都道府県に支部を置き、全国的組織のもとに、小中学生の少年相撲、高校・大学の学生相撲、青年・実業団・教員の社会人相撲などの普及指導にあたり、アマチュア相撲の競技法、審判法などの競技規則を定めて、大会の運営を行っている。
学生相撲から相撲界に入るようになったのは1960年代からの傾向で、1961年に入門した豊山(ゆたかやま)(1937― )(大関)から始まり、学生横綱輪島は弟子入りして2年後に横綱に出世している。その後、出羽の花(1951― )、2代目豊山(1947―2020)、4代目朝潮、旭富士(あさひふじ)、久島海(くしまうみ)(1965―2012)、舞の海(1968― )、武双山(むそうやま)(1972― )、琴光喜(ことみつき)(1976― )、御嶽海(みたけうみ)、朝乃山などはいずれも大学相撲で活躍してから入門し、幕内に出世している。2019年(令和1)7月時点で、学生相撲出身の関取は12人である。
[池田雅雄・向坂松彦・徳増信哉 2019年12月13日]
『ベースボール・マガジン社編・刊『相撲名著選集』全16巻(復刻版1985)』▽『鰭崎英朋画、笠置山勝一解説『相撲四十八手』(1986・ベースボール・マガジン社)』▽『池田雅雄著『相撲の歴史』(平凡社カラー新書)』
大相撲の土俵
相撲のおもなきまり手(1)
相撲のおもなきまり手(2)
相撲のおもなきまり手(3)
相撲のおもなきまり手(4)
勧進相撲
江戸時代の取り組みの図
梅ヶ谷藤太郎(2代目)
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