野畑村(読み)のばたけむら

日本歴史地名大系 「野畑村」の解説

野畑村
のばたけむら

[現在地名]庄内町野畑 南園みなみぞの仁瀬正源寺にせしようげんじくら成合なりあい加倉かくらなど

大分川の支流阿蘇野あその川左岸に沿って細長く延びる村。北西奈良田ならだ村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷野畑組に属した(府内藩記録)正保郷帳に野畠村とみえ田高二五四石余・畑高一一三石余、阿南あなん庄に所属。柴山あり、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高四二二石余。文化八年(一八一一)一二月村民三〇人が城下へ拝借銀を願出た。藩が拒絶したため村民は打毀の動きを示し、上納物の軽減、三種類の運上の免除、村役人の罷免を認めさせた(文化一揆)。翌年一月二一日首謀者五人が逮捕され、七月には伴右衛門が大分河原ぼうヶ小路(現大分市)で処刑されている(党民流説)

野畑村
のばたけむら

[現在地名]豊中市春日かすが町一―五丁目・宮山みややま町一丁目・同四丁目・向丘むかいがおか一―三丁目・西緑丘にしみどりがおか一―三丁目・北緑丘きたみどりがおか一―二丁目・永楽荘えいらくそう一―四丁目・緑丘みどりがおか一丁目・同三―五丁目

現豊中市域の北端、千里せんり川上流の桜井さくらい谷奥北に位置する。桜井谷六ヵ村の一で、天保郷帳に「桜井谷野畑村」とある。村域は大部分千里丘陵地にあり、集落は箕面みのお道沿い(現春日町一丁目)に展開。野畠とも記す。中世は垂水西たるみのにし牧桜井郷に属し、永享元年(一四二九)八月日の春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠帳(今西家文書)の耕作関係者の地名を示す肩書に「野畠」の名がある。

野畑村
のばたむら

[現在地名]岡崎市野畑町

占部うらべ(用水)右岸に位置し、東は若松わかまつ村、西は在家ざいけ村、南は下和田しもわだ村、北は井内いない村に接する。和田郷一二ヵ村の一つで和田郷から分離独立した。当初は草分百姓七戸であったという(岡崎市史)。「三河国二葉松」に野畑城主として佐野右馬助の名がある。佐野氏は天文年間(一五三二―五五)松平七代清康に仕えた(碧海郡誌)。慶安二年(一六四九)検地では村高三六六石余、うち水田一五三石余・畑二一二石余。

野畑村
のばたけむら

[現在地名]夢前町野畑

戸倉とくら村の北、菅生すごう川の中流域右岸に位置し、西は宍粟郡三森みつもり(現安富町)。正保郷帳では莇野あぞの村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に独立して村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ莇野村」と注記され、高二〇九石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高二二九石余(うち無土百姓弁八斗余)、免五ツ一分、家数三三・人数二一八。

野畑村
のばたむら

[現在地名]豊里町野畑

百家はつけ村の西に所在。慶長八年(一六〇三)から旗本菅谷範政知行地、元禄一一年(一六九八)から分家の菅谷政朝の知行地となり廃藩置県に及んだ。「各村旧高簿」によると明治元年(一八六八)には菅谷平八郎の知行地で村高二七八・二三二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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