野田保・野田庄(読み)のだほ・のだのしよう

日本歴史地名大系 「野田保・野田庄」の解説

野田保・野田庄
のだほ・のだのしよう

鹿田しかた庄の西に位置していた。現岡山市街部の南西の野田を遺称地とし、一帯に推定される国衙領の保、のち奈良東大寺領庄園。領家は同寺東南院。なお平安末期には西野田保が成立、「吾妻鏡」文治四年(一一八八)二月二日条によれば、「備前国吉備津宮領西野田保」について大江公朝が地頭貞光の妨げを源頼朝に訴えているが、却下されている。

建久四年(一一九三)に東大寺大勧進重源は、大仏殿灯油料田として備前国内の荒野開発を申請して二六〇町の地を賜り、二年で開発し終えた。しかし散在地であったため国衙との紛争を回避するために、この開発田を国衙に返上して替りに一円地を願出て、別納の保で現作田一三〇町の「野田保」が大仏殿常灯料などに充てられることとなり、同七年一一月三日、当保は東大寺の不輸庄園となった(「官宣旨」東大寺続要録)。翌八年六月一五日、重源は野田庄などを東南院院主含阿弥陀仏定範に譲り、預所職には年来の同行である重阿弥陀仏を補任した(「重源譲状」大日本史料)。同九年一二月の後鳥羽院庁下文(東大寺続要録)で、三野みの所管であった野田庄は、東は鹿田庄、南は公領三野新郷・新堤保、西は三野新郷・大安寺だいあんじ庄、北は公領伊福いふく郷という四至が定められ示が打たれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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