野田庄(読み)のだのしよう

日本歴史地名大系 「野田庄」の解説

野田庄
のだのしよう

狭山さやま(現南河内郡狭山町)の北、西除にしよけ川流域に位置し、現堺市北野田きたのだ・南野田・丈六じようろく西野にしのなどを含む一帯に比定される。建永元年(一二〇六)八月、河内国司が新牧を立てて、馬一〇疋が放牧された。この牧内に当庄や奈良興福寺領狭山庄などが取込まれ、稲を作っていた庄民が牧人らの乱暴にあい、一庄がすでに滅亡の状態になっていることを訴えた。野田庄の領家もしくは給主とみられる藤原長兼はかつて新牧の建立に関与した持明院保家に申入れ、内々の解決を図っている(「三長記」同月一〇日条)。嘉元四年(一三〇六)六月、後宇多上皇はすべての所領を昭慶門院に譲与したが、その目録(竹内文平氏旧蔵文書)中に宝樹ほうじゆ院領の一つとして「河内国野田庄 章顕朝臣 御年貢三千疋」がみえ、その地名のわきに「大覚寺」と書かれている。

野田庄
のだのしよう

豊岡盆地の北部、円山まるやま川西岸の城崎きのさき郡内、現在の野田および船町ふなまち宮島みやじまの一部をさした地名。一帯は低湿地で江戸時代を通じても集落は形成されなかった。天正三年(一五七五)山名氏被官の田結庄・垣屋両氏が争って「野田表の合戦」(但州発元記)を展開、垣屋氏が勝った(一一月二四日「八木豊信書状」吉川家文書)。同八年但馬を占領した羽柴秀吉の麾下宮部善祥房継潤は、同九年八月日付で鈴木三郎左衛門に「野田庄荒地打開」を賞して当国百姓頭に申付け、大隅玄蕃屋敷所を永代免許した(「宮部継潤地子免状」河本家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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