鹿田庄(読み)かだのしよう

日本歴史地名大系 「鹿田庄」の解説

鹿田庄
かだのしよう

射水郡に所在した古代の奈良東大寺領で、鹿田村ともみえる。カダの訓は慣例による。天平宝字三年(七五九)一一月一四日の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)のなかに「鹿田村地弐拾玖町参段壱伯歩東南公田 西石川朝臣豊成地 北法花寺溝 開田弐拾弐町肆段弐伯弐拾歩 未開陸町捌段弐伯肆拾歩」とみえ、天平勝宝元年(七四九)に占定された野地について、天平宝寺三年時における総地・四至・開墾状況などを伝える。開田は射水郡の一五条桃田ももた里に三町四段、桃田下ももたしも里に三町五段、一六条小家田おやけだ里に五町二段、小家田下おやけだしも里に一〇町三段余が分布し、庄内東部にあたる小家田里・小家田下里の開田率が高い。同日付の開田地図は現存しないが、仁平三年(一一五三)四月二九日の東大寺諸庄園文書目録(守屋孝蔵氏所蔵文書)の鹿田庄の項に「一帖 天平宝字三年」とみえ、同地図の存在したことが知られる(この目録には神護景雲三年の絵図の存在も記されるが、ともに現存しない)

天平神護三年(七六七)二月一一日の民部省符案(東南院文書)には「鹿田庄」とみえ、「新応堀溝地一処長九十丈 広四尺 深二尺 応損公田一百廿歩」とあって、新規の灌漑用水を開削する計画のあったことを示している。

鹿田庄
しかたのしよう

旭川下流域右岸、現在の岡山市街部の南半分に庄域は比定される。明治二二年(一八八九)には同地域に鹿田村が成立、旧鹿田村の一部は現在鹿田町となっている。東は鹿田河(旭川)、南は「アチトノ」(フチトノ)瀬戸に面し(正安二年「上道郡荒野庄領地図」大宮家蔵)、西は奈良東大寺領野田のだ庄に接していた(建久九年一二月日「後鳥羽院庁下文」東大寺続要録)。藤原氏の氏長者が代々相伝する庄園で(「中右記」寛治八年三月一一日条・「葉黄記」寛元四年正月条など)、大原野二季祭饗、奈良興福寺の長講・法華両会料などのほか(朝野群載)、歳末の修法の雑具を調進している(「勘仲記」建治二年一二月一六日条)

「日本紀略」寛和二年(九八六)正月一九日条などによると、国司藤原理兼が呵責したとの当庄民の訴えの実否を調査するため、関白太政大臣藤原頼忠の使いとして派遣された左京属真髪部久鑑は、逆に理兼に乱暴したと訴えられ、解職されている。二月二六日条では興福寺僧らは理兼が当庄を損亡したと訴えており、三月四日に理兼および在家を焼亡した犯人らを召還するため検非違使が派遣された(本朝世紀)。ところがこの使いが役目を果さないうえ、勝手に米二千余石を徴収したため、国司・庄司らが訴え、四月二八日に奪って運上してあった米を検封し、処罰した(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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