野根浦(読み)のねうら

日本歴史地名大系 「野根浦」の解説

野根浦
のねうら

[現在地名]東洋町野根 うら東町ひがしまち

野根村ともいう。野根川河口北東岸の海岸砂丘上に形成された漁業・商業の集落。野根川による盛んな堆積作用のため砂丘が発達し、付近の浦に比べて津波の害が少なかった。海岸沿いに南下した土佐街道(東街道)は、当村付近で西に折れ野根山を越え、この付近では野根山のねやま街道とよばれる。当地は近世には宿場としても栄えた。

貞応元年(一二二二)配流地の土佐国幡多はたから阿波国に移された土御門上皇は、隠岐の父後鳥羽上皇を思い野根浦で「浦々に寄する白波こととはむおきのことこそ聞まほしけれ」と詠んだと「北条九代記」にある。室町・戦国期にかけては惟宗氏、天正三年(一五七五)長宗我部氏の野根城攻略以後はその部将桑名将監の支配下にあった。野根郷の中心で、天正一七年の野禰村地検帳では「浜ヤシキ」を中心に浜役人一名を含む四十数名の長宗我部家臣団の居屋敷があり、水主二名、番匠一名も給人として名を連ねる。また「フシコエ」の続きに「ミナト」の小字があり、野根川河口が川港になっていたことがわかる。慶長八年(一六〇三)の東浦船頭水主帳によれば水主二三人、鍛冶二軒、船大工一軒、田作り塩焼き九軒など三二軒があったとみえるが、この数字は長宗我部時代後期の数と大きな変化はないと思われる。長宗我部氏にとって野根浦の地は野根山東麓を押え、甲浦かんのうらを後方から支える要地であった。

江戸時代になっても参勤交代時の諸役や、蔵米・木材の上方輸送にこの浦の廻船と水主は重要視された。寛文一一年(一六七一)の諸差出(寺田氏所蔵文書)では、浦分四五〇軒のうち、水主役を勤める家が一六〇軒あった。「浦司要録」によると貞享三年(一六八六)に野根浦から「殿様御泊宿故彼是御用繁、夫役相勤其上漕船等出し、甲浦ニ御馬船不足ニ付野根浦廻船過半御用ニ相立候故、御上下之懸リ水主御減被下候得」との訴えが出されているほどである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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