野原村(読み)のはるむら

日本歴史地名大系 「野原村」の解説

野原村
のはるむら

[現在地名]山香町野原

内河野うちがわの村の南東、大村おおむれ山の南東麓に位置する。八坂やさか川とその支流立石たていし川に挟まれた地域で、南は唐木からき山を主峰とする鹿鳴越かなごえ山塊を境に日出ひじ村・辻間つじま(津島)(現日出町)に対する。鹿鳴越は豊前への主要道が通り、中世には大友氏の軍事拠点の一であった。村は江戸時代には日出藩領の一手永で、正保郷帳などでは野原村(西野原村)貫井ぬくい村・恒道つねみち村の三村で高付されている。野原村を構成する小村は辻間薗つじまぞの上船木かみふなき西野原にしのはるの三ヵ村。貫井村の小村は徳田とくだ本川内もとごうち西中尾にしなかお下中尾しもなかお樋掛ひかけ高月たかつき恵良えら竹下たけんしたいち井手いでひら井堀いぼりだい志手しすひら行重ゆくしげの一四ヵ村。恒道村の小村は、小野の尾おののお尾鳥おとりひら伏林ふくばやし小川原おがわら御堂の原みどうのはる八幡森やわたもり・東野原・竜頭りゆうず庵畠あんばた・下船木・みやはる本村ほんむら神塩こうじおの一四ヵ村(図跡考)

〔中世〕

正治元年(一一九九)一二月六日の大神家実譲状案(都甲文書)に「やまかのつねミちかミやうてんの事」とあり、家実は都甲とごう(現豊後高田市)の地頭職とともに恒道名田を養子「にふのわう」(壬生王、のちの都甲惟家)に譲っている。家実の父家忠は山香郷司であり、家実が初代都甲氏を名乗った(年月日未詳「都甲庄地頭職次第注文案」同文書)

野原村
のばらむら

[現在地名]智頭町野原

慶所けいじよ村・竹内たけのうち村の南西、土師はじ川の右岸にある。同川対岸は香音寺こうおんじ村。土地の人々は「のんばら」とよぶ。土師谷の交通の要地で、備前街道が通り宿駅が置かれた。当地で同街道より分岐、南に下り真加野まがの村の谷を越え美作国勝北しようぼく郡に至る道がある(因幡志)。制札場も置かれていた(在方諸事控)。拝領高は五七石余。尼子氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高六三石余、毛付高七八石余、本免五ツ四分、同年の物成高四〇石余。天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)と推定される書上(古田家文書)では田畑畝数四町九反余、家数一六・人数五八、牛一三。

野原村
のわらむら

[現在地名]大宮町野原

東は尾合おごう川を挟んで黒坂くろさか村、西は野添のぞえ村に接する。野添村境を流れるかつら川河口から、宮川が北流し東に流れを変える沿岸の地。流域に沿って縄文遺跡が多い。古来神領で七箇しちか御園のうちといわれる。「建久三年皇太神宮年中行事」に「彼口入所ヨリ沙汰之。九月度ハ野原郷役米三斗送進。以五六禰宜任巡向」、「氏経神事記」永享一三年(一四四一)六月条に「帰参人夫自打見郷三人亦自野原一人相途中替」とみえ、滝原たきはら宮祭典奉仕の例幣使参向の諸役を果した。また「年中神役下行御贄以下記」永享一〇年正月一六日条に追補使職事が引かれ「野原郷領家禰宜荒木田神主判」とある。

野原村
ぬばりむら

[現在地名]上野村野原のばる

宮国みやーぐん村の北に位置し、北部に野原ぬばり岳がある。宮古で唯一海に臨まない村。雍正旧記は蔵元(現平良市)より南南東にあたり、一里二三町五〇間、友利とうむ(現城辺町)より宿次一里八町一六間、番所は南西向きで村の真ん中にあると記している。地内の大嵩うぷだき(大嶽城)は長さ五八間・横五〇間、門はほぼ南南西向きで、以前は大嵩村の主大按司の居城であったが、石垣も崩れ、村も廃墟になっていたので、康熙五五年(一七一六)野原村を立てたという。また平屋久ぴやーく御嶽の祭神「ひけたら」は戦乱の世を嫌って平屋久嶺に住み、農耕に励んでいた。

野原村
のはらむら

[現在地名]旭町上切かみぎり上中切かみなかぎり下中切しもなかぎり下切しもぎり島崎しまざき

矢作川の右岸にあり、南は矢作川を隔てて三河国小渡おど村・有間あんま村に対する。北から東にかけて一色いつしき村・浅谷あざかい村、西は現西加茂郡小原おばら村に接する。集落は五つに大きく分れており、小起伏面上山麓の上切・上中切・下中切、ともえ川河岸山麓の下切、河岸段丘上の島崎がある。現主要地方道土岐―足助線と県道島崎―豊田線が通る。縄文時代前期の島崎遺跡・同後期の西小柳にしこやなぎ遺跡が島崎の河岸段丘上、同後期・晩期の大砂おおすな遺跡が下切の河岸段丘上、同時期不詳の南洞みなみぼら遺跡が上切の山麓の傾斜地にそれぞれある。

野原村
のばらむら

[現在地名]荒尾市野原・八幡台はちまんだい一丁目

北部を菜切なきり川が西流し、東は金山かなやま村とかば村、西は菰屋こもや村、北は川登かわのぼり村に接する。「中右記」永久二年(一一一四)三月一八日条に「野原庄訴無実也」とみえる野原庄の遺称地。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田三四町三反七畝余・畠屋敷九町一畝余、屋敷筆数二三、分米四三七石一斗余。近世は荒尾手永に属する。「国誌」には「高六百九拾六石四斗余内西野原村三百二十一石五斗余、東野原村三百七十四石九斗余」とある。

野原村
のわらむら

[現在地名]白川町河東かとう 野原

飛騨川左岸の河岸段丘上の台地に位置する。北は飛騨川を隔てて武儀むぎ新津しんづ村、東は宇津尾うつお村・葛牧くずまき村、南は飛騨川を隔てて武儀郡広島ひろしま村。慶長郷帳では旗本滝川豊前領・幕府領・西尾丹後領に三分され、高八五石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では一九石余が滝川領、二〇石余が西尾忠永(上野白井藩)領、もと幕府領四五石余は尾張藩領となる。正保郷帳では田方二〇石余・畑方六四石余・山高六斗余。西尾氏領分が尾張藩領となり、同藩領分六五石余、滝川領分は変わらず。「濃州徇行記」によると尾張藩領は家数三五・人数一六〇、馬九。茶・楮を作り、和泉いずみ村の商人に売る。

野原村
のはらむら

[現在地名]江南町野原

江南台地南東部に位置し、東は大里郡和田わだ(現熊谷市)、西は須賀広すがひろ村、北は大里郡万吉まげち(現熊谷市)、南は東流する和田川を境に比企郡土塩つちしお(現滑川町)。小田原衆所領役帳によると、馬廻衆の閼伽井坊は「松山野原」で一三貫文を知行していた。天正二〇年(一五九二)三月、武川衆は徳川氏から「野原之郷」で一六八石余を宛行われている(記録御用所本古文書)

野原村
のわらむら

[現在地名]下山村野原

ともえ川の支流野原川に沿い、東は宇連野うれの村・吉平よしだいら村、南は羽布はぶ村、西は大林おおばやし村、北は高野たかの村・保殿ほどの村に接する。集落は小起伏面上の谷地形の山麓に点在。現主要地方道阿蔵―本宿線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。慶安四年(一六五一)保久ほつきゆう(現額田郡額田町)に陣屋を置く旗本石川総氏の知行地となり明治に至る。

山麓高台に曹洞宗仏国山常楽じようらく寺がある。創建年月不詳であるが、開山華厳大富は慶長一二年(一六〇七)没。

野原村
のはらむら

[現在地名]舞鶴市字野原

大浦半島の最北端、成生なりう岬の基部西側に位置し、西に向かって開ける砂浜海岸の奥に集落がある。若狭湾の沿岸潮流が施回して当地の海岸を洗う。この地は古代において海上交通上重要な位置を占めていたと考えられている。

延徳二年(一四九〇)の河辺村半済方御年貢米銭納帳写(「西大浦村誌」所引)に、

<資料は省略されています>

とある。近世に入り慶長検地郷村帳に高一六七・二石「野原村」とみえ、土目録でもほぼ同高で、内訳は田方一五〇石余、畑方一七石余。小物成のうちに海成米六斗六升、肴米二石六斗四升があって、半農半漁の当村の性格を示している。

野原村
のはらむら

[現在地名]五條市野原町

吉野川南岸に所在。東はまき村。長禄三年(一四五九)の西田又次郎畠地売券(岡松家文書)に「ノハラ中村 中畠 スミタ」(端裏書)、「大和国宇智郡河南庄之内三宅字中畠」、文明五年(一四七三)の野原頼栄畠地売券(同文書)に「大和国宇智郡野原庄」、長享二年(一四八八)の愛千代畠地売券(同文書)に「野原コマツハタケ」(端裏書)、「字小松畠仁 在大和国宇智郡河南庄之内」、永正一二年(一五一五)の野原頼栄畠田売券(同文書)に「大和国宇智郡野原郷之内三宅」、天正一三年(一五八五)の才五郎水田売券(同文書)に「大和国宇智郡野原郷河南之庄三宅台」などとみえ、戦国期には河南かわみなみ庄、野原庄、野原郷とよばれた。

野原村
のはらむら

[現在地名]三原町八木笶原野原やぎやはらのはら

新庄しんじよ村の東にある。村名の野原は上古の「笶原」が転じたものとされる(常磐草)正保国絵図では高六六石余、天保郷帳では高八七石余。反別戸数取調書によると反別一四町六反余、高一〇七石余、すべて蔵入地。家数九九・人数六〇八。水利としてかご池がある(味地草)。八木組に所属し、庄屋は天保五年(一八三四)書写の庄屋名面帳(高田慎二氏所蔵文書)では新右衛門。

野原村
のばらむら

[現在地名]松江市野原町

邑生おう村の北東に位置し、南東は中海に臨む。北西は別所べつしよ村。村内みやはなの東に弁慶べんけい島があるが、現在は陸続きとなっている。かつて当村と別所村は一郷であったが、山城国宇治うじ郡川島村出身の者がこの地に移住し、子孫繁栄を祝して荒神を祀った際に両村に分村したと伝える(雲陽誌)。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)の検地帳によると田方一三町余(分米一六九石余)・畑方一町九反余(分米六石余)、屋敷数は御役屋敷六・引方五(うち御蔵屋敷一)。元禄十年出雲国郷帳によると高二一五石余、寛文四年(一六六四)には本田高二一二石余・新田高五斗余。

野原村
のはらむら

[現在地名]落合町野原

舞高まいたか村の北、旭川右岸に位置し、対岸は下見しもみ村。西方より標高四〇〇メートルほどの山地の裾が迫り、耕地は川沿いに開ける。南流してきた旭川は当地で大きく蛇行する。「作陽誌」によれば舟六艘を有し、米・薪炭などを岡山城下へ送る舟運に従事する者も多かった。天正七年(一五七九)と思われる六月二日付の口羽春良書状(美作古簡集)に野原名とみえる。正保郷帳では田高二二石余・畑高九五石余。

野原村
のはらむら

[現在地名]福野町野原

大門だいもん川右岸に位置し、西は八塚やつづか村。用水が整備されていなかった頃は水の便のない野であった。元和五年(一六一九)の家高新帳に「のわら」とみえ、役家数三。正保郷帳では野原村は高二四八石余、田方一五町五反余・畑方一町。ほかに野原新村がみえ、高八三石余、田方四町八反余・畑方七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三六三石、免四ツ七歩、小物成は野役二七匁。

野原村
のはらむら

[現在地名]東粟倉村野原

太田おおた村の北西に位置し、青野あおの村からの細道が太田村境で後山うしろやま川沿いの道と交わる。村の北端の赤金あかがね山を源流とする野原川流域に耕地・家屋が点在する。正保郷帳に村名がみえ、田一七石余・畑四三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一〇石余・開高三石余、村位は下。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報