過書船(読み)カショブネ

デジタル大辞泉 「過書船」の意味・読み・例文・類語

かしょ‐ぶね〔クワシヨ‐〕【過書船/過所船】

過書をもらって航行する船。
江戸時代伏見大坂間の淀川筋の往来を許可されて、客や貨物を運送した船。

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精選版 日本国語大辞典 「過書船」の意味・読み・例文・類語

かそ‐ぶね クヮソ‥【過書船】

〘名〙 「かしょぶね(過書船)」の変化した語。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「過書船」の意味・わかりやすい解説

過書船
かしょぶね

過所船とも書く。江戸時代に淀(よど)川を運航して京都―大坂間の貨物・乗客を運んだ川船。元来、広く過書(関所手形)を所持する船の称であった。1598年(慶長3)徳川家康により過書座の制が設けられ、それまで水運に従事していた淀船と、新設の三十石船とを包括し、河原与三右衛門(かわはらよざえもん)(のち角倉与一(すみのくらよいち))と木村宗右衛門(そうえもん)の両人が過書船奉行(ぶぎょう)に任命された。

 船の数は江戸経済の発展につれて多くなり、18世紀前期には淀上荷(うわに)船の二十石船507艘(そう)、30石積み以上の船が671艘であった。この過書座支配下の船のうち、30石積み以上の船を過書船とよんだ。このうち三十石船は客船である。普通、1艘の乗客30人前後で、水夫(かこ)4人で運航し、貨物には米穀、塩、魚類材木などがあった。所要時間は、流れをさかのぼる上り船で1日または一晩、下り船は半日または半夜で京都―大坂間を往復した。

柚木 学]

『須藤利一編著『船』(1968・法政大学出版局)』

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改訂新版 世界大百科事典 「過書船」の意味・わかりやすい解説

過書船 (かしょぶね)

近世,大坂と京・伏見の間の貨客を運んだ特権川船。過書(通行手形)を所持する船の意か。豊臣秀吉から1598年(慶長3)河村与三右衛門,木村惣右衛門が朱印状をうけ,徳川家康も1603年これを再認した。享保初年,乗客を主にした三十石船671艘,貨物運送した二十石船507艘であった。1698年(元禄11)伏見船の新設にともない打撃を被り,のち在方船の進出により両者とも衰退した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「過書船」の解説

過書船
かしょせん

京都と大坂を結ぶ淀川の貨客船。過書とは中世の淀川に乱立した関所を通過する際に関料の免除を認めた手形で,これをもつ船を過書船といった。豊臣秀吉は淀津を拠点とする淀船と海船に起源をもつという過書船を統制下におき,役負担とひきかえに淀川での営業独占を認めた。ついで徳川家康も独占を公認,淀川水運の管理統制機関として過書座を設け,過書株を162に限定するとともに過書奉行を設置した。これにより享保期には小型の淀二十石船もあわせて30石以上の過書船は1200艘余の勢力となった。しかし近世後期になると,過書座の独占を破る在方の船の活動が活発化し,その勢力は衰退していく。

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百科事典マイペディア 「過書船」の意味・わかりやすい解説

過書船【かしょぶね】

江戸時代,淀川の定期船。過所船とも書く。普通20〜30石積みで,船腹に〈過〉の字の印を打ち,上り1日(1晩),下り半日(半夜)で京・伏見〜大坂間を上下する重要な交通機関であった。
→関連項目吹田

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旺文社日本史事典 三訂版 「過書船」の解説

過書船
かしょぶね

江戸時代,淀川を運航した貨物・乗客を運ぶ船
「過所船」とも書く。もとは広く過所を所持する船を過所船といったが,1603年に徳川家康が過書船奉行を置き,運上を課し,運賃を定めた。伏見・大坂間を上り1日または1夜,下り半日または半夜で航行した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「過書船」の意味・わかりやすい解説

過書船
かしょぶね

本来は過所 (過書) を所持する船のこと。江戸時代に徳川家康が過書船の制度を定めたため,大坂-伏見間の淀川を往復する船を称した。

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