吹田(読み)スイタ

デジタル大辞泉 「吹田」の意味・読み・例文・類語

すいた【吹田】

大阪府中北部の市。北部の千里丘陵には住宅団地万博記念公園がある。人口35.6万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「吹田」の意味・読み・例文・類語

すいた【吹田】

大阪府北部の地名。大阪市に北接する。中世、神崎川の河港として発展。明治時代にビール工場が設立されて工業都市となり、北部の千里丘陵に千里ニュータウンが開発されて後は住宅が急増、大阪市の衛星都市となる。昭和四五年(一九七〇)には日本万国博覧会の開催地となり、跡地は現在公園として整備され、国立民族学博物館国立国際美術館などの施設がある。昭和一五年(一九四〇)市制。

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日本歴史地名大系 「吹田」の解説

吹田
すいた

神崎川の右岸に位置、水田とも書き、淀川水上交通の一拠点であった。神崎川は古名を三国みくに川といい、七世紀末ないし八世紀初めには淀川からは独立した水系となっていたが、のち淀川と連結する開削工事が行われた。「行基年譜」の「天平十三年記」にみえる「次田堀川」がその最初の試みと考えられ、次いで「続日本紀」延暦四年(七八五)正月一四日条に「遣使掘摂津国神下・梓江・鰺生野、通于三国川」とある。淀川・三国川の連結後、前述のように吹田は淀川舟運の要衝となった。吹田には現在も町名として残る高浜たかはまとよばれる津があり、「更級日記」は和泉への旅で淀川を下った時の情景を「たかはまといふ所にとゞまりたる夜、いと暗きに、夜いたうふけて、舟のかぢのをときこゆ。とふなれば、遊女の来たるなりけり」と記している(ただしこの高浜を現三島郡島本町の高浜にあてる説もある)。遊女は江口えぐち(現東淀川区)の遊女であろう。「長秋記」元永二年(一一一九)九月六日条にも「出神崎、於高浜、召遊君六人纏頭」とみえる。また「山槐記」治承四年(一一八〇)七月一八日条によれば、中山忠親は福原ふくはら(現神戸市兵庫区)の都へ向かう途中、淀川渇水のため時間を予想外に費やし夜明けに吹田に着いている。その帰途忠親は八月二八日福原を発って同夜吹田に船を止め、翌朝吹田から鳥羽とば(現京都市伏見区)に向かった。

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百科事典マイペディア 「吹田」の意味・わかりやすい解説

吹田【すいた】

摂津国島下(しましも)郡南端の地名で,南は神崎(かんざき)川を挟んで同国西成(にしなり)郡。現在の大阪府吹田市南端部にあたり,いま市名に継承されている。水田とも書き,平安時代から淀川筋の水上交通の一拠点。神崎川は古名を三国(みくに)川といい,7世紀末ないし8世紀初めには淀川から独立した水系となっていたが,8世紀末に淀川と連結する開削工事が行われ,以降港津として発展,《更級日記》などに関連記事がみえる。鎌倉時代,吹田はますます重要な位置を占め,方違(かたたがえ)の場として貴族の日記に散見,また風光明媚なことから別業(なりどころ)も営まれた。なかでも著名なのは西園寺公経(きんつね)の山荘で,公経はたびたび有馬(ありま)湯(現,神戸市兵庫区)から湯を運ばせて湯浴みしている。この山荘は公経の子実氏(さねうじ)が伝領,後嵯峨上皇が2度にわたって御幸(ごこう)している。古代の吹田には皇室領吹田御厨,山城醍醐寺末清住(せいじゅう)寺領の吹田荘があり,中世には奈良興福寺領吹田荘が成立。興福寺領吹田荘は,同寺の維摩会(ゆいまえ)料負担の荘園であったが,ほかに藤原氏氏長者の春日(春日大社)詣に際しての木柴夫や人夫役などの雑役(ぞうえき),さまざまな名目での小島荘役米を負担していた。応仁の乱が勃発すると,北摂は西軍大内氏によって侵略され,また吹田・茨木(いばらき)を中心に国人一揆が起こったため,興福寺の支配は有名無実となった。15世紀の末頃,吹田には手猿楽(さるがく)の一流がいて,京都で勧進猿楽を演じている。舟運の要地であることは近世に入っても変わらず,1582年10月,3ヵ条からなる禁制が羽柴秀吉豊臣秀吉)から吹田津宛に出されており,徳川氏の時代になっても保護政策は続けられた。1594年の太閤検地の際,吹田村として高付けされ(村高3173石余),以後〈村〉として幕末に至るが,過書(かしょ)船の営業圏に含まれ,また商売屋が多く,在郷町に近かった。1908年吹田町となり,1940年同町を中核に吹田市が成立。
→関連項目吹田[市]

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改訂新版 世界大百科事典 「吹田」の意味・わかりやすい解説

吹田[市] (すいた)

大阪府北部,大阪市の北に隣接する市。1940年市制。人口35万5798(2010)。市域は北部の千里丘陵と,南部を流れる神崎川,安威(あい)川の沖積低地からなる。吹田は,伊丹・亀岡両街道がこの地で合して神崎川の吹田渡を渡り大阪に至る三叉路にあたり,中・近世には陸上交通と舟運の要地であった。1876年東海道本線吹田駅が開設され,89年の大阪麦酒会社(現,朝日麦酒)創業により工業化が始まった。第1次大戦前から神崎川沿岸に染色,さらしなどの中小工場が立地し,その後製紙・金属工業なども加わって大阪市に接続する工業地域が成立した。1921年大阪市の十三(じゆうそう)と千里山を結ぶ北大阪電気鉄道(現,阪急千里線)が開通して住宅地が北部へ拡大し,関西大学(1922)など教育施設も設置された。1960年前後から丘陵地を切り開いて千里ニュータウンが造成され,典型的な住宅都市となった。1970年開催の万国博覧会跡地には国立民族学博物館などがある。名神高速道路が通り,吹田ジャンクションで中国自動車道と近畿自動車道が分岐している。
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