逆川村(読み)さかさがわむら

日本歴史地名大系 「逆川村」の解説

逆川村
さかさがわむら

[現在地名]幸田町逆川

さん山を水源とし村域中央を西南より東流する拾石ひろいし川沿いの谷底平野に集落がある。当村は幡豆はず郡の最東部に位置し、東は額田郡深溝ふこうず村と耕地および山で、西は宮迫みやばさま(現幡豆郡吉良町)、南は東幡豆ひがしはず(現幡豆郡幡豆町)、北は桐山きりやま村・上六栗かみむつぐり村と各々山で接する。深溝村より村域中央を吉良きら道が貫く。室町時代に吉良氏の支配より深溝城主大場氏の領地になったと伝えられる。大永年間(一五二一―二八)以降に大場氏を倒した深溝松平氏の本貫になった。「武徳編年集成」永禄四年(一五六一)三月三日条に、

<資料は省略されています>

とある。吉良東条きらとうじよう攻めに功のあった深溝城主松平好景の弟康定に松平元康が本領逆川一二貫文に拾石赤川一〇〇貫文を加増して安堵した。

逆川村
さかかわむら

[現在地名]土佐山田町逆川

物部ものべ川の東方山中、現香我美かがみ町境にあり、ほぼ南流する物部川とは逆に、当地付近では北東流する片地かたじ川沿いに位置する。東は秋葉あきば(四八九・五メートル)、西南は聞楽きくらく(三六八・三メートル)、その北に鳥越とりごえ峠がある。現土佐山田町域の村としては、西南方にある戸板島といたじま村とともに佐古さこ(大部分は現野市町)に属した。

天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳は「大忍分と申、逆川ノ村地検帳之事、深淵郷ト有双方論所村付不仕也」として一一町七反を記すが、そのすべてが恵日えにち(現香我美町)領とある。

逆川村
さかさがわむら

[現在地名]河津町逆川

みね村の西、逆川(現稲梓川)流域に位置する。西は北野沢きたのざわ村。山を隔て河津川の南側にあり、逆川は河津川と逆方向に流れるためにこの名がつけられた。古くは新庄あるいは深松村とも称したという(増訂豆州志稿)三島神社の棟札には永正一五年(一五一八)二月一二日「代官平朝臣矢野中之五郎左衛門尉家次」が造立し、天文二年(一五三三)一〇月「稲生沢之郷逆河村惣社」を代官清水右京亮吉政が修造したとある。天正一八年(一五九〇)一二月七日の河津之庄逆河村御縄打水帳(逆川区文書)では田方一七町七反余・畑方屋敷六町七反余。江戸時代の領主変遷笹原ささはら村と同じ。元禄郷帳によると高二三九石余。

逆川村
さかさがわむら

[現在地名]棚倉町逆川

福井ふくい村の西、阿武隈高地西縁部丘陵とやしろ川沿岸平地に立地。水戸街道が通り一里塚がある。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。正保郷帳では高八五石余、うち田四〇石余・畑四四石余。元禄郷帳では高一二七石余。慶応元年(一八六五)の村指出帳控(逆川区有文書)によれば、反別田八町四反余・畑二九町四反余、家数八、人数三四(男一五・女一九)、馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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