越来間切(読み)ぐいーくまぎり

日本歴史地名大系 「越来間切」の解説

越来間切
ぐいーくまぎり

沖縄島中部東側、現沖縄市西半にあたり、中頭方に属する。西は北谷ちやたん間切、北は読谷山ゆんたんじや間切、東は美里んざとう間切、南は中城なかぐしく間切に接する。グィークとよばれる。里積記によれば首里から越来ぐいーく(南風原村)の間切番所までの距離は四里四合一勺三才(約四里一五町)。東側を宿道(東海道)がほぼ南北に走り、南は宜野湾じのーん間切、北は美里間切に連結していた。成立期は不明。ただ同時代史料ではないものの、「中山世譜」や「球陽」などの記述から宣徳一〇年(一四三五)に後の琉球国王尚泰久が越来間切の按司地頭に任職されていることが知られ、一五世紀前半にはその存立が確認できる。「おもろさうし」巻二の三四に「一 こゑくあやみやに(越来の綾庭に)/こかねけは うへて(黄金木を植えて)/こかねけか下(黄金木の下で)/きみのあちの(君の按司が)/しのくりよわる(〔豊穣を〕準備される)/きよらや(見事さよ)/又 こゑくくせみやに(越来の奇しき庭に)」とある。君の按司は大君クラスの身分の高い神女のこと。「こがね」は蜜柑の一種シークヮーサーの仲間で小さく黄色に色づく。そのほかシマ名が同書巻二・巻一四(いろいろのゑさおもろ御さうし)などに散見される。宣徳一〇年に当時の王弟であった尚泰久が(「球陽」尚泰久王附紀)、また成化六年(一四七〇)には同じく第二尚氏王朝初代尚円王の弟尚宣威が(同書尚宣威王附記)、それぞれ越来王子に封ぜられており、のちの国王となる人物が配されるなど古琉球期における要衝の地とされていた。なお尚宣威は成化一三年国王の位についたが、前王の世子尚真を正統な王とする神託により在位六ヵ月で退き、越来に隠退したという(同書尚宣威王即位元年条)

正保国絵図では「越来間切ごえくまぎり」の高四千三八一石余。絵図郷村帳には二一ヵ村が記され、うち赤崎あかさち村は一七三六年の同帳書写時にはすでに存在していなかったと注記される。康熙五年(一六六六)間切分割で当時二〇余ヵ村で構成されていた越来間切から一五ヵ村を割いて美里間切が分離・独立した(「球陽」尚質王一九年条)琉球国高究帳によれば越来間切は一四ヵ村で、合高四千三八一石余、うち田二千四七九石余(うち永代荒地五五五石余)・畠一千九〇一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の越来間切の言及

【沖縄[市]】より

…沖縄県,沖縄島(本島)中部,那覇市の北方22kmに位置する市。琉球王朝時代には越来間切(ごえくまぎり)を基盤に越来城が築かれていたが,首里王府の新政策によって,1666年(寛文6)越来間切と美里間切に分離し,1908年特別町村制の施行で,越来村,美里村に改称した。56年6月越来村はコザ村と改称し,翌月市制を施行した。…

※「越来間切」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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