豊田郷(読み)とよたごう

日本歴史地名大系 「豊田郷」の解説

豊田郷
とよたごう

現在の益田市隅村すみむら町・本俣賀ほんまたが町・向横田むかいよこた町・横田町にわたる地域にあった、長野ながの庄を構成する内部の所領単位。貞応元年(一二二二)八月一七日の関東下知状写(内田文書、以下断らない限り同文書)によれば、遠江国内田うちだ(現静岡県掛川市・菊川町)下郷地頭内田宗(致)茂が、承久の乱の勲功により石見国貞松さだまつ(現浜田市)・豊田郷地頭職に補任されている。前任の地頭については不明だが、隣国長門国と石見国守護を兼任していた佐々木広綱などの東国御家人であろう。同二年三月日の石見国惣田数注文では「なかのゝしやうの内豊田 十八丁四反百五十卜」とみえ、長野庄内では唯一吉賀よしか郡内に属していた。豊田郷内部は俣賀村と横田村に分れ、内田氏によって分割相続されていく。致茂は嘉禎二年(一二三六)六月に豊田郷を嫡子致員と庶子致重・弥益丸に譲った(同年一二月一五日将軍家政所下文写)。豊田郷惣領地頭職と横田中村を譲られた致員は、弘長二年(一二六二)には隣接する吉賀郡(現津和野町・日原町)地頭代から越境狼藉を訴えられているが(同年三月一二日関東御教書写)、その活動の拠点は遠江国にあり、代官支配に当たった。これに対して、横田上村を譲られた致重と俣賀村と横田下村を譲られた弥益丸は石見国の所領の経営に当たった。

西仏(致員)は文永八年(一二七一)四月三日に豊田中村を嫡子生仏(致直)に譲り(西仏譲状写)、弘安八年(一二八五)五月二三日に幕府がこれを安堵しているが(関東下知状写)、一方で弘安五年一〇月二八日に西仏が孫朝員(致朝子)へ譲状を与えたため、正応四年(一二九一)一〇月一〇日に、生仏は父西仏の意向を尊重して、朝員を養子として豊田郷惣領地頭職を譲った(生仏譲状写)

豊田郷
とよたごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「豊田」と記し、訓を欠くが郡名に従う。「芸藩通志」は「豊田の郷詳ならねど和木、大草の辺なるべし」とする。「日本地理志料」は「初称沙田、而郡家在焉、後改今名」とし、山福田やまふくだ和木わき大草おおぐさ(現賀茂郡大和町)の各村をあてる。「大日本地名辞書」も「今豊田村建つ、椋梨の南なり、即古の本郷にあたるか、和木小田の二大字あり」とする。

豊田郷
とよだごう

「和名抄」東急本は「止与多」の訓を付す。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条所引の三月三〇日付公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状にみえる「豊田庄地頭加藤太光員」は、当郷に由来する荘園か。郷域は、「日本地理志料」は「北勢古志、今有豊田、豊田一色二村、亘福埼、高松川北、松寺、蒔田、梯諸邑、称豊田郷、是其域也」とし、「大日本地名辞書」は「今川越村是なり」とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報