石見国(読み)イワミノクニ

デジタル大辞泉 「石見国」の意味・読み・例文・類語

いわみ‐の‐くに〔いはみ‐〕【石見国】

石見

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日本歴史地名大系 「石見国」の解説

石見国
いわみのくに

現島根県域の隠岐諸島を除く西半を占める。東は出雲国・備後国、南は安芸国・周防国、西は長門国に接し、北は日本海に面し、形状は東西に長い方形に近い。平野は海岸部にわずかにみられるだけで、大部分は中国山地の山々や丘陵地となっている。国名については、「先代旧事本紀」所載の国造本紀に石見国造がみえ、瑞籬朝に紀伊国造同祖の蔭佐奈朝命児大屋古命を国造に定めたとある。「日本書紀」斉明天皇三年(六五七)条に「白狐見ゆ」との石見国からの言上記事が載る。

古代

〔律令制下の石見国〕

「延喜式」神名帳・民部省によれば、石見国は安濃あの邇摩にま・那賀・邑知おおち(邑智)・美濃・鹿足かのあしの六郡からなるが、承和一〇年(八四三)五月八日に美濃郡を分割して鹿足郡が新立されているので(「続日本後紀」同日条)、九世紀前半までは五郡であった。「和名抄」高山寺本によれば、安濃郡八郷・邇摩郡五郷・那賀郡七郷・邑知郡五郷・美濃郡七郷・鹿足郡二郷の六郡三四郷からなる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条には、石見国の駅として波祢はね託農たくの樟道くすち・江東・江西・伊甘いかみが載せられており、駅馬は各五疋と定められていた。石見国府については、現邇摩郡仁摩にま町からのちに現浜田市下府しもこう町に移転したとする説、現江津市二宮にのみや地区から現浜田市下府町に移転したとする説、現浜田市下府町説、現浜田市上府町説などがある。昭和五二年度から五四年度にかけて三次にわたる発掘調査が浜田市下府町で行われ、瓦や土器を発見したが、国府跡は確認されていない。石見国分寺は現浜田市国分こくぶ町の浄土真宗本願寺派金蔵こんぞう寺境内を中心として金堂・講堂跡が考えられ、軒丸瓦・軒平瓦・などが出土している。石見国分尼寺は同じく国分町の曹洞宗国分寺の寺域内と推定され、礎石の一部や古瓦が残存し、軒丸瓦・軒平瓦が出土。石見国司名の正史上の初見は、「続日本紀」天平宝字七年(七六三)九月一五日条の従五位下奈紀王の石見守任命である。

「延喜式」主税寮の諸国出挙正税公廨雑稲条によれば、石見国は正税・公廨各一五万五千束、国分寺料二万束・文殊会料一千束・修理池溝料二万束・救急料四万束を課されていた。「和名抄」東急本国郡部には本田面積四千八八四町九段四二歩、正税・公廨各八万一千束、本穎稲三九万一千束、雑稲八万一千束とある。「延喜式」主計寮によれば、石見国と都の行程は上り二九日・下り一五日、調庸は綿を出し、中男作物は紙・紅花・薄鰒・雑・紫菜。同書民部省では石見国の等級は中国、距離上は山陰道の遠国とされた。

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改訂新版 世界大百科事典 「石見国」の意味・わかりやすい解説

石見国 (いわみのくに)

山陰道の最西端に位置し,現在の島根県西半部にあたる。石州ともいう。

《国造本紀》に石見国造をおいたと伝えるが,国司が管する石見国は大化改新後まもなく設置,《日本書紀》斉明3年(657)条に初見する。安濃(あの)・邇摩(にま)・那賀(なか)・邑知(おうち)・美濃(みの)の5郡で構成され,843年(承和10)美濃郡から鹿足(かのあし)郡が分立して6郡となった。国府の所在地は那賀郡(現,浜田市下府町御門付近),等級は中国で遠国。《和名抄》の田数4884町9段42歩。813年(弘仁4)国営田30町を設定したことがある。山陰道は出雲国から波禰(はね)(大田市波根)・託農(たくの)(現大田市,旧仁摩町宅野)・樟道(くすち)(現同市,旧温泉津町?)・江東(江津市太田)・江西(同金田)・伊甘(いかみ)(浜田市下府?)の各駅をつないで長門国に入った。国分寺は浜田市国分寺町国分,一宮,物部神社は大田市川合町に所在した。《万葉集》に石見の歌がある柿本人麻呂は8世紀初め当国で没したとの説もある。884年(元慶8)邇摩郡司が郡内の有力農民をひきいて権守宅を襲撃する事件がおこり,881年には美濃郡都茂郷丸山で銅鉱の産出をみた。
執筆者:

中世への移行は,国衙領の再編と中世荘園の成立,この二つの要因に規定され,長期にわたる複雑な過程を経て達成された。まず国衙領についてみると,1063年(康平6)清原頼行が久利郷司職に補任されたのを史料的初見として,すでにこの当時から国衙領の中世的再編が進められつつあったことが知られる。1223年(貞応2)の《石見国惣田数注文》によると,4対3の割合で国衙領のほうが荘園より多いこと,国衙領は国府所在地たる那賀郡をはじめ安濃郡・吉賀(鹿足)郡などで圧倒的な比重を占め,全体に別符の多いことなどが特徴である。一方,荘園は少数ながら大規模なものが美濃郡や邇摩郡・邑智(知)郡などに存在する。そのおもなものは摂関家領益田荘・長野荘・大家荘,山門領桜井荘,賀茂社領久永荘,石清水八幡宮領大国保(荘)などで,このうち益田・長野両荘のある美濃郡は耕地の95%以上が荘園によって占められ,この点で荘園のまったく存在しない那賀郡と著しい対照をなしている。郡構成は出雲・伯耆など他の山陰道諸国と同様,古代と基本的に異なるところはなく,郡は単なる地域区分表示にとどまった。しかし石見の場合,荘園の成立にともなって郡域は大きく変動し,また鎌倉期になって三隅郷・周布郷・小石見郷等の旧和名抄郷が復活・成立するなど,その内実は鎌倉期を通じてなお流動的であった。これは別符が多いことともかかわって,中世的開発の著しい進展と,これに対応する社会構造の大きな転換の始まりを示すものといえよう。

 このようななかで,益田氏をはじめとする在地領主層は,平安末の内乱期以来,源氏および幕府方に属しており,鎌倉幕府による石見国支配はかなり強力に浸透していたものと推定される。系図などによると中世益田氏の祖藤原(御神本(みかもと))定通は12世紀初頭国司として石見国に下向し,国衙支配機構をてことして石見一円に急速に所領を拡大したといわれ,国府所在地たる那賀郡伊甘郷が中世を通じて益田氏の根本所領の一つであったことからも,この伝承には一定の史実の反映を認めることができよう。益田氏およびその庶子家三隅氏・福屋氏・周布氏などがそれぞれ独立した鎌倉幕府御家人として把握され,また貞応2年(1223)の惣田数注文が幕府の命による再度の国検を経て幕府方大田文として提出されたのもこのことを示していよう。鎌倉期の石見国守護は1193年(建久4)佐々木定綱が補任されたのを最初とするが,守護所の所在やその後の守護職次第については明らかでない。荘園制支配の実権は早くから在地領主層によって掌握され,たとえば鎌倉期に伊甘郷から益田荘本郷(益田本郷)に拠点を移した益田氏の場合,南北朝期には益田本郷の名田を再編成し,独自に本百姓-間人(もうと)体制を実現している。ひだの深い谷と険しい山に囲まれた石見国の地形は,また谷あいの溢(えき)(山間の小盆地を流れる湧水のこと)ごとに進められる開発耕地のあり方ともかかわって,小規模武士団の分立と庶子家の独立化をうながし,鎌倉末・南北朝初期その傾向はとくに顕著であった。

 石見国における南北朝の内乱はとりわけ激烈で,今日に残る多数の城址もそのことを示している。それは足利直冬が石見国を一重要拠点としたこととともに,上記のような在地構造のあり様とその変化に深く規定されていたと考えることができよう。1364年(正平19・貞治3)大内弘世が石見国守護に任じられ,以後荒川・京極・山名などの諸氏が大内氏の間隙をぬって断続的に守護職に補任されることもあったが,その間にあっても大内氏による石見国支配は事実上維持されたと推定され,こうして石見国にあっては全体として大内氏による守護領国制支配が展開されることとなった。しかしその内実は,たとえば守護大内義弘が1380年(天授6・康暦2)益田氏の所領に対する守護使不入を確約しなければならなかったように,在地勢力によって強く規定され,不安定で不徹底なものであることを免れることはできなかった。南北朝末・室町期の石見では,益田氏本宗家における惣領職の成立など惣領家による庶子家の統制強化が進行し,政治支配秩序の一定の安定をみた。この時期の石見国人層としては,益田氏とその庶流三隅氏・福屋氏・周布氏などのほか,鎌倉期に石見に入部した吉見氏・小笠原氏・佐波氏・出羽氏などがあり,それぞれに自立的な勢力として各地に割拠した。戦国期の1521年(大永1)以後,石見国はたびたび雲州尼子氏の攻撃を受け,東部はその勢力下におかれたが,56年(弘治2)以後は芸州毛利氏の領国となり,70年(元亀1)毛利氏による石見平定が成った。この間,1526年石見銀山が大内氏によって開発され,以後慶長までの間に9回も領有権者が交替するなど,石見国における激しい戦乱の一源泉となった。毛利氏による石見国検地は90年(天正18)に実施され,ここに石見国中世は終りをつげた。
執筆者:

1562年(永禄5)石見銀山を確保した毛利元就は石見国全域を領有したが,83年毛利は豊臣秀吉に服属し銀山は秀吉の管理下におかれた。1600年(慶長5)関ヶ原戦後処理として徳川家康は石見国を毛利から没収し,11月大久保長安・彦坂元正を派遣し石見国全域を接収させた。これによって毛利の配下にあった吉見・益田など石見の豪族の多くは毛利を頼って長門国へ移った。翌01年家康は吉見の故地津和野に坂崎直盛を封じ津和野藩が成立したが16年(元和2)除封,17年亀井政矩を因幡国鹿野から津和野へ移した。19年古田重治が伊勢国松坂から中部の浜田に新封され浜田藩が成立し,石見銀山を中心とした東部4万5000石余が幕府の直轄領となった。こうして石州三分支配体制が確立されたが,その領域は錯綜し,領界の変更もしばしば見られた。石見銀山御料は奉行所(のち代官所)を大森におき,初代大久保長安から75年(延宝3)まで石見銀山奉行,以後幕末まで大森代官が支配した。浜田藩は古田時代に亀山に築城し城下町も形成されたが,以後藩主の更迭がはげしく,中でも1836年(天保7)竹島事件に関連して藩主松平康任の老中罷免,奥州棚倉への所替は領民に大きな衝撃を与えた。66年(慶応2)7月第2次長州戦争で浜田は落城し美作国鶴田(たづた)へ転退,大森代官も逃走したため長州の軍政下におかれた。69年(明治2)8月旧幕領と浜田藩の領域は新政府直轄となり大森県をおいたが翌年2月浜田県と改称し,県庁は大森から浜田へ移された。71年6月津和野藩の廃藩によって石見全域が浜田県となったが,76年4月島根県に統合した。

 石見の特産物としては石見銀山の銀・銅のほか銑・和紙・陶器が知られる。銑は中国山地北斜面の良質な砂鉄を原料とした鑪(たたら)で生産され,大坂市場で諸国鋳物師から高く評価された。主要な鑪稼行地は江川本支流の流域であった。和紙は津和野藩・浜田藩ともに国産第一の産業として奨励したので山間部農村の主要な産業となった。この石州半紙は大坂市場で好評を博し藩の重要な財源となった。陶器は海岸丘陵地帯の豊富な陶土層の存在により早くから日用雑器の生産をみたが,とくに水がめ・壺類などは石見の丸物と親しまれ,北陸から北九州にまで販路をのばし,今日の石州瓦に代表される石見窯業の基礎となった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石見国」の意味・わかりやすい解説

石見国
いわみのくに

島根県の西半部にあたる旧国名。日本海と中国山地に挟まれた狭長な地形。石見の語源が石海(いわうみ)あるいは石満(いわみ)であるといわれるように、大部分が山地で、江の川(ごうのかわ)、高津(たかつ)川など数条の河川が日本海に注いでいるが、沖積平野は発達していない。

 大化改新後、安濃(あの)、邇摩(にま)、那賀(なか)、邑知(おおち)、美濃(みの)の5郡が置かれたが、843年(承和10)美濃郡から鹿足(かのあし)郡が分立した。国府の所在地については浜田市周辺説が強いが、現在のところ確認されていない。8世紀初め、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が石見掾(じょう)として赴任したといわれる。石見の豪族益田(ますだ)(御神本(みかもと))氏は、平安末期、国衙官人(こくがかんじん)として下向、土着したもので、益田荘(しょう)(益田市東部、浜田市南部)を中心に、主として石見中西部に勢力を扶植した。

 1193年(建久4)佐々木定綱(さだつな)が初代石見守護に補任(ぶにん)されたが、以後の鎌倉期守護は明らかでない。南北朝期には益田氏など在地領主の間で複雑な抗争が繰り返されたが、1364年(正平19・貞治3)大内弘世(おおうちひろよ)が守護となるに及んで平定に向かった。大内氏は応永(おうえい)の乱(1399)で守護職を失い、山名(やまな)氏が入部するが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後はふたたび大内氏に還補(げんぽ)された。戦国時代に本格的開発が行われた石見銀山(大田(おおだ)市)は、大内、尼子(あまご)、毛利(もうり)、小笠原(おがさわら)ら諸豪の争奪の的となるが、のち徳川幕府の直轄地となり、17世紀前半最盛期を迎えた。江戸時代の石見は、銀山領、浜田藩、津和野(つわの)藩に三分されたが、近世初頭、銀山領を中心とする石見東部に、浄土真宗が伝播(でんぱ)し、石見門徒とよばれる強固な地盤を形成したことは注目される。1866年(慶応2)長州再征のとき、親藩浜田藩は長州軍の攻撃を受け、藩主は逃亡、城は炎上した。一方、津和野藩は長州に好誼(こうぎ)を通じたので、明治新政府のもとで活躍する人材が輩出した。

 1869年(明治2)銀山領、浜田藩は隠岐(おき)県とともに大森県となったが、翌年浜田県と改称。1871年には津和野藩が編入され、まもなく隠岐が移管されて石見一円が浜田県となった。1876年に浜田県は島根県に編入された。

[藤岡大拙]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石見国」の意味・わかりやすい解説

石見国
いわみのくに

現在の島根県西半部。山陰道の一国。中国。もと石見国造が支配。国府,国分寺ともに現在の浜田市にあった。万葉の歌人柿本人麻呂は和銅,神亀の頃,この国の鴨山で没したといわれている。『延喜式』には安濃 (あの) ,邇摩 (にま) ,邑知 (おおち) ,那賀 (なか) ,美濃 (みの) ,鹿足 (かのあし) の6郡がみえ,『和名抄』には郷 36,田 4884町余があげられている。鎌倉時代,初め佐々木定綱が守護となり,次いで建仁2 (1202) 年,藤原兼高が任じた。兼高は美濃郡益田に住して益田氏を称し,その子孫は周布氏,三隅氏となり,この地方に割拠した。南北朝時代には正平年間 (1346~70) 大内氏が守護,次いで石見銀山が発見されると足利直冬が領有。やがて大内,尼子,毛利がこれを争い,豊臣秀吉はこれを直轄領とした。弘治1 (1555) 年以降,毛利氏領。徳川家康は慶長6 (1601) 年,大久保長安を奉行として銀山の事にあたらせ,産銀は激増した。江戸時代にはこのほか亀井氏の津和野藩と浜田氏の浜田藩とがあった。明治4 (1871) 年,廃藩置県により浜田県となったが,1876年に島根県に合併。

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百科事典マイペディア 「石見国」の意味・わかりやすい解説

石見国【いわみのくに】

旧国名。石州とも。山陰道の西端,現在島根県西半部。《延喜式》に中国,6郡。柿本人麻呂客死の地として知られ,中世には益田(ますだ)氏が勢力をもち,のち大内・尼子・毛利氏が支配。近世初め,津和野・浜田両藩が置かれて明治に至る。→石見銀山大久保長安浜田藩
→関連項目島根[県]石州半紙中国地方

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藩名・旧国名がわかる事典 「石見国」の解説

いわみのくに【石見国】

現在の島根県西半部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陰道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の浜田市におかれていた。南北朝時代には益田氏や三隅氏ら在地領主同士で抗争が繰り返されたが、1364年(貞治(じょうじ)3)に大内弘世(ひろよ)が守護となり平定した。戦国時代石見銀山が開発されると、大内氏尼子(あまこ)氏毛利氏が争奪戦を繰り広げた。江戸時代に銀山は幕府直轄となり、ほかに浜田藩津和野藩がおかれ、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により、石見一円は浜田(はまだ)県となり、1876年(明治9)に島根県に編入された。◇石州(せきしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石見国」の解説

石見国
いわみのくに

山陰道の国。現在の島根県西部。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では安濃(あの)・邇摩(にま)・那賀・邑知(おおち)・美濃・鹿足(かのあし)の6郡からなる。国府・国分寺は那賀郡(現,浜田市)におかれた。一宮は物部神社(現,大田市)。「和名抄」所載田数は4884町余。「延喜式」では調庸として綿,中男作物として紙・紅花など。石見の万葉歌を残した柿本人麻呂はこの地で没したと伝えられる。鎌倉時代には益田氏一族が各地で勢力をはった。のち戦乱のなかで大内氏,毛利氏の領国となる。16世紀半ばから石見銀山が盛期を迎え,各氏がこれをめぐり争った。近世は幕領(石見銀山領)・浜田藩・津和野藩が成立。1866年(慶応2)幕領・浜田藩領は萩藩に占領された。69年(明治2)旧幕領・浜田藩領は大森県となり,70年浜田県と改称。71年の廃藩置県により津和野藩は浜田県に合併。76年浜田県は島根県に合併。

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