親田村(読み)おやだむら

日本歴史地名大系 「親田村」の解説

親田村
おやだむら

[現在地名]下條村親田

現下條村の西部、下条山脈極楽ごくらく(一二四七メートル)山麓に位置する。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳(佐々木忠綱氏蔵)では親田と相田あいだ二村が一括して記載されている。その後、相田は親田に包含されて一村とされた。慶長六年(一六〇一)より飯田藩領に属し、小笠原氏・脇坂氏の所領となった。寛文一二年(一六七二)より一時幕府領となったが、天和元年(一六八一)以降高須藩領となった。村高は正保四年(一六四七)には一九〇石余(信濃国絵図高辻)であったが、元禄一五年(一七〇二)には三一四石余(信濃国郷帳)に急増した。延宝(一六七三―八一)頃より急激に開田・開畑が進み、鶯巣うぐす川から取り入れた新井あらい開削もこの頃行われた。

親田村
うえーだむら

[現在地名]大宜味村田嘉里たかざと

東シナ海に注ぐ屋嘉比やはび(現在の田嘉里川)の中流域に立地し、上流屋嘉比やはび村。ウェーダとよぶ。絵図郷村帳・琉球国高究帳に村名はみえないが、「琉球国由来記」には国頭くんじやん間切親田村と記されており、康熙一二年(一六七三)田湊たんな間切(のち大宜味間切と改称)設置後に屋嘉比村から分離したとされる。康熙三四年以後の間切所属の変遷は屋嘉比村と同じ。「球陽」尚泰王二五年(一八七二)条によると、同年九月八日は風雨が激しく、国頭間切はま(現国頭村)の加那良原で山崩れがあり、大きな被害が生じた。

親田村
おやだむら

[現在地名]銚子市親田町

小浜おばま村の北に位置し、磯見いそみ川が流れる。北東に離れて山田やまだ集落がある。慶長一七年(一六一二)一〇月の検地帳(親田区有文書)は五冊残り、海上うなかみ郡小谷田村とある。寛永四年(一六二七)旗本松平領となり、年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では親田村二一〇石余。

親田村
おやだむら

[現在地名]成東町親田

市場いちば村の北に位置し、さかい川が流れる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高八九石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では真行寺組に属し、旗本永田領五六石余・同新庄領四二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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