要害山(読み)ようがいさん

日本歴史地名大系 「要害山」の解説

要害山
ようがいさん

安田関やすだせきと鳥取県米子市の県境にあって標高二八一・二メートル。古くは手間てまの山・宝見ほうけん山などといった(「宝見山八幡宮由来記」安田宮内八幡宮蔵)。安田関には「出雲国風土記」にみえる手間があったとされ、峠越えの道は古代の山陰道といわれる。この道は中・近世にも出雲と伯耆を結ぶ要路として用いられた。平安時代、山中八幡成はちまんなりに出雲八別宮の一つであった八幡宮があり(前掲由来記)坊床ぼうとこ谷には長台ちようたい寺があった。尼子氏時代には富田とだ(現広瀬町)を守る内十城(十砦)とよばれる要害山となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「要害山」の解説

ようがいさん【要害山】


山梨県甲府市上積翠寺(かみせきすいじ)町にある山城跡。甲府盆地の中央北部、相川扇状地の奥部にあり、標高約770mの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を中心に築かれた。扇状地の開口部に位置する武田氏館跡の北東約2kmの地にあり、館の詰めの城である。中腹以上に顕著な遺構が残っており、山頂部を削り、土塁をめぐらして本丸としている。1519年(永正16)、武田信虎は石和(いさわ)から移って躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を構え、翌1520年(永正17)にその背後に砦(とりで)や狼煙(のろし)台のあるこの山城を築いた。実際に戦いの場にはならなかったが、今川氏家臣の福島(くしま)正成が甲斐に攻め込み、甲府に迫ったとき、避難していた信虎の室、大井夫人嫡男(のちの信玄)を城中で出産したと伝えられている。1581年(天正9)に信玄の子勝頼が新府城に移り、翌1582年(天正10)、武田氏が滅んだため、城は徳川氏の支配を受けたのち、豊臣方の加藤光泰が入って修築、関ヶ原の戦い後、廃城になった。本丸に達する通路枡形曲輪(くるわ)・堀切りなどのほか要所をかためる石垣もよく残っており、武田氏の城郭として、また館跡とあいまって中世豪族の居住形態の典型として、1991年(平成3)に国の史跡に指定された。JR中央本線ほか甲府駅から山梨交通バス「積翠寺」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「要害山」の解説

要害山

(山梨県甲府市)
山梨百名山」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報