西田村(読み)にしだむら

日本歴史地名大系 「西田村」の解説

西田村
にしだむら

[現在地名]鹿児島市西田一―三丁目・常盤町ときわちようなど

鹿児島城下の西に位置する。参勤道(出水筋)に沿う城下西田町の南北に広がる。出水いずみ筋は西田町・常盤谷を経て水上みつかん坂を登り横井野よこいの町方面に至る。正平一二年(一三五七)二月一一日の博多ひいのかわ後家譲状(旧記雑録)に鹿児島のうち「にしたのむら」とみえ、村内の後迫うしろさこの居屋敷・田六反二〇・園三ヵ所が上山衛門五郎に譲られている。応永三四年(一四二七)八月一〇日、村内の宮地園三ヵ所が本田重恒より賢忠けんちゆう寺に寄進されている(「本田重恒寄進状」同書)。永享一一年(一四三九)二月一八日、益山傑叟が寄進し義天(島津久豊)から安堵された村内の水田五反と、義天から寄進された村内の水田二反などが鹿児島福昌寺慧灯えとう院に安堵されている(「島津用久袖判証状」薩州用久系図)

西田村
にしだむら

[現在地名]八木町字西田

東は青戸あおと村・観音寺かんのんじ村、北には刑部おさべ村・北広瀬きたひろせ村が連なる。村域の西から南にかけて大堰おおい川が流れ、北の小丘以外は水田地帯である。大堰川に注ぐ三俣みまた川が村の北部を西流するが、天井川であるため用水は大堰川を利用する。

幼時丹波に住した相国しようこく(現京都市上京区)の僧瑞渓周鳳は「臥雲日件録」文安四年(一四四七)八月一三日条に

<資料は省略されています>

と記す。具体的な地名は出ないが、前後の記述からみて、この部分は西田村の北部を西から東へ歩いた時の記事と考えられる。

西田村
にしたむら

[現在地名]温泉津湯里ゆさと大字西田

湯里村の南、飯原はんばら村の東、矢滝城やたきじよう(六三四・二メートル)西麓の山間村。同山北麓の降路ごうろ(降露)坂越の銀山街道が通る。中世大家おおえ温泉ゆの郷のうち。戦国期には温泉郷を構成した飯原・湯里とともに温泉三方ゆさんぼうとも称した。石見銀山(現大田市)と温泉郷との接点で、同銀山から温泉津湊への道が通る。天文一七年(一五四八)八月一九日の水上神社造営棟札(水上神社蔵)に「西田村」とみえ、源朝臣西田甲斐寺長識が西田村八幡宮の拝殿を造営している。

西田村
にしあしだむら

[現在地名]青垣町西芦田

中央を佐治さじ(加古川)が流れ、東は田井縄たいなわ村、西は岩屋いわや山。山陰道が通る。中世葦田あしだ庄の遺称地。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に西蘆田村とみえ田高八三七石余・畠高四七七石余、柴山・はえ山あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安二年(一六四九)栗住野くりすの口塩久くちしおくを分村し(「氷上郡郷村明細帳」氷上郡志)、元禄郷帳・天保郷帳ともに高五五七石余。慶安三年以降の領主の変遷は田井縄村に同じ。

西田村
にしだむら

[現在地名]倉敷市西田

中帯江なかおびえ村の南東に位置し、東は早島はやしま(現都窪郡早島町)と接する新田村。当初は早島村内西田新田と称した。旗本早島戸川領。承応元年(一六五二)の開発。早島戸川役所日記写(納所文書)には西新田・旗本帯江戸川領亀山新田の両新田の開発企人として羽島はしま村五郎右衛門・早島村助左衛門の二人の名があげられているが、寛政七年(一七九五)の村明細書(早島町史)によると当初は不成功に終る。

西田村
さいだむら

[現在地名]高岡市西田

二上ふたがみ丘陵の麓にあり、北は太田おおた村、北西は宮田みやた(現氷見市)。岐阜県上宝かみたから村の永昌えいしよう寺蔵の永享七年(一四三五)の「大般若経」奥書に「西田国泰寺」とある。正保郷帳では高一二九石余、田方五町八反余・畑方二町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一五〇石・免四ツ九歩、小物成は山役二三匁(三箇国高物成帳)。以後寛保二年(一七四二)まで高・免・小物成は変わらない(「高免等書上」折橋家文書)。寛文三年の役家高二(「川西家高付帳」川合家文書)。寛保二年の家数は百姓一四・頭振二(高免等書上帳)。天保四年(一八三三)には合せて二四軒(「家数調理帳」折橋家文書)

西田村
にしだむら

[現在地名]袋井市西田

山名やまな郡に所属。川井かわい村の南東、宇刈うがり川の西岸に位置する。村名はもと川井村と一村で、同村の西に位置したからといい、宇刈川と原野谷はらのや川の合流点に西田淵とよぶ深い淵があったという(掛川誌稿)。正保郷帳に村名がみえ、田方一九四石余・畑方二石余、幕府領。寛文四年(一六六四)一部は掛川藩領となる(「井伊直好領知目録」寛文朱印留)。元禄一〇年(一六九七)幕府領が旗本花房領となり、掛川藩領と花房領で幕末に至る(袋井市史)。元禄期以前に孫左衛門まござえもん新田(孫左衛門村)を分村、元禄郷帳では西田村の高二〇三石余、西田村枝郷孫左衛門村を分筆する。

西田村
にしだむら

[現在地名]岡部町西田

櫛挽くしびき台地の北西端に位置し、東はおか村、西は小山こやま川を挟んで児玉郡東五十子ひがしいかつこ(現本庄市)、南は沓掛くつかけ村、北は同川を境に牧西もくさい(現本庄市)。当村西端部の榛沢はんざわ村境で身馴みなれ川に志戸しど川が合流して小山川となるが、現在は身馴川も小山川とよばれる。用水は志戸川分水の西田堀を利用(郡村誌)。田園簿によると田方四石余・畑方一九石余、旗本新見領。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高二三石余で旗本佐久間領、天保郷帳でも高二三石余。

西田村
にしほうだむら

[現在地名]三木市別所町西這田べつしよちようにしほうだ・別所町西這田一丁目・別所町花尻べつしよちようはなじり

東這田村の西に位置し、美嚢みの川の下流左岸、三木盆地の南西部に立地する。「播磨国風土記」の美嚢みなぎ高野たかの里の条にみえる祝田ほうだ社の遺称地。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は高木たかぎ村と同じ。正保郷帳では田方三八五石余・畑方五〇石余。元禄郷帳では高四五九石余。天保郷帳では高五〇七石余。明治一四年(一八八一)の戸数六六・人口二八五(地種便覧)

西田村
にしだむら

[現在地名]富山市下新町しもしんまち下新日曹町しもしんにつそうまち下新西町しもしんにしちよう

神通川と奥田新おくだしん用水の間にあり、富山藩領。同用水を挟んで南は奥田上新村、東は奥田下新村。奥田村などからの懸作百姓が西方の田や桑畑を開発して村立てしたのが村名の由来という。奥田下新村と奥田上新村からの出村とされる(竹島家文書)。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では新田高一一九石余・平均免二ツ七歩余。

西田村
にしだむら

[現在地名]西郷町西田

下西しもにし村の南西に位置し、集落は入江に臨む。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田七一石余・八町余、畑五石余・四町八反余、ほかに新田畑四石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一四匁・絞油六合役一匁二分・核苧五四〇目役一匁四分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、家数三一(百姓二一・間脇一〇)のうち御役目屋敷一四、人数一八五、牛三一・馬三三、鉄砲一、手安船一。山王権現・切明明神が鎮座、禅宗の観音寺がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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