国泰寺(読み)こくたいじ

精選版 日本国語大辞典 「国泰寺」の意味・読み・例文・類語

こくたい‐じ【国泰寺】

[一] 北海道釧路支庁厚岸(あっけし)町にある臨済宗南禅寺派の寺。山号は景運山。文化元年(一八〇四江戸幕府が東蝦夷(ひがしえぞ)の鎮撫(ちんぶ)を目的に創建した三官寺の一つ。開山は文翁。
[二] 広島市西区己斐上(こいうえ)にある曹洞宗の寺。もと臨済宗。山号は鳳来山。寺名は豊臣秀吉の諡号(しごう)国泰院に由来する。文祿三年(一五九四)毛利輝元の創建。恵瓊(えけい)の開山。はじめ安国寺と称した。慶長六年(一六〇一福島正則が普照を迎えて現宗に改め改称した。浅野氏の菩提寺。昭和五三年(一九七八)同市中区中町から移転。
[三] 富山県高岡市太田にある臨済宗国泰寺派の大本山。山号は摩頂山。正安元年(一二九九慈雲妙意の開山。はじめ東松寺と称したが、嘉暦三年(一三二八)後醍醐天皇勅額を賜わり、国泰寺となる。応仁の乱に会い荒廃したが、天文一五年(一五四六)雪庭祝陽が後奈良天皇の勅により再興。明治三八年(一九〇五)独立。

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デジタル大辞泉 「国泰寺」の意味・読み・例文・類語

こくたい‐じ【国泰寺】

富山県高岡市にある臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。嘉暦2年(1327)後醍醐天皇から勅額を受けて慈雲妙意が開山。天文15年(1546)現在地に移転。
北海道釧路総合振興局厚岸あっけし郡厚岸町にある臨済宗南禅寺派の寺。山号は景雲山。開創は享和2年(1802)、開山は文翁知政。北方の鎮撫を目的に創建。蝦夷三官寺の一。

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日本歴史地名大系 「国泰寺」の解説

国泰寺
こくたいじ

[現在地名]厚岸郡厚岸町湾月町

湾月わんげつ町の南部、バラサン山北麓にある。景運山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は釈迦如来。創建は前近代にさかのぼり、シャマニとうじゆ(現様似町)、ウス善光ぜんこう(現伊達市)と並び江戸幕府が建立した蝦夷地三寺の一つ。幕府が蝦夷地を直轄していた一八〇二年(享和二年)、箱館奉行は本州から出張する役人・職人・漁民などの増加に対して墓所を取立て墓守の僧を置くことを提案、これに対して幕府は新寺院建立を決定した。この決定により関東僧録司である江戸芝金地しばこんち(現東京都港区)を本寺とする臨済宗寺院として創建された。ただし本寺の下知により実際は鎌倉五山が当寺を管轄した。〇四年(文化元年)四月に文翁が初代住職に任命され、同年五月には寺号、〇五年一月には建立地をそれぞれ決定、同年一〇月に初代住職が入寺した。住職は任命時将軍に御目見得し、江戸出立蝦夷地赴任にあたっては登城して寺社奉行に暇を仰せ付けられた。堂宇の建立・維持および寺禄(手当金は定額で四八両、手当米一〇〇俵・扶持米一二人扶持は米時価)は当初、蝦夷地経営費から支出された。二一年(文政四年)蝦夷地が松前藩領に復したのちは寺禄は同藩から給された。住職は寺社奉行が鎌倉五山から順に任命することを原則とし(輪番)、配下の末寺・塔頭から派遣された。前近代には九代にわたる住職が七年から一〇年前後の任期で厚岸に在勤した。

国泰寺
こくたいじ

[現在地名]高岡市太田

二上ふたがみ山北西麓の丘陵上、鬱蒼とした木立に囲まれる。寺域一帯はみごとな竹林である。摩頂山と号し、臨済宗国泰寺派本山。本尊釈迦如来。越中観音霊場三番札所(稿本越の下草)。開創は嘉暦三年(一三二八)、開山は慈雲妙意(清泉禅師・慧日聖光国師)信濃の人慈雲は当初越後の五智ごち(現新潟県小千谷市)において剃髪受戒し、関東檀林において修行したが、永仁四年(一二九六)夏、北陸の曹洞禅に参じようと行脚の途中、射水郡二上の地に至り、山中に庵室を構えたのに始まる。それは現氷見ひみ小竹弘源おだけこうげん寺の地であるという。翌五年庵室を訪れた孤峰覚明禅師の示唆を得て、紀州由良の興国ゆらのこうこく(現和歌山県由良町)を訪ね、法灯派の祖無本覚心より印記を受けた。永仁六年覚心の死後二上山へ戻り、正安年間(一二九九―一三〇二)東松とうしよう寺を開創した。嘉暦二年には後醍醐天皇に召見され、清泉禅師号と紫衣・七条袈裟・肉付払子・勅詠一首を賜り、翌年「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、以後国泰寺を称し、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として、京都南禅寺と同格の勅願所となったとする。暦応二年(一三三九)には北朝の光明天皇より国泰寺を越中安国寺に当てるという勅があったというが(清泉妙意禅師行録)、疑問である。

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改訂新版 世界大百科事典 「国泰寺」の意味・わかりやすい解説

国泰寺 (こくたいじ)

富山県高岡市にある寺。臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。法灯国師(無本覚心)に参じ,孤峰覚明の法嗣となった慈雲妙意(恵日聖光国師)が,後醍醐天皇の帰依をうけて,1328年(嘉暦3)に越中氷見郡二上山に開創した。尊氏をはじめ歴代足利氏の保護をうけたが,応仁・文明の兵乱で焼失。1546年(天文15),後奈良天皇の命によって雪庭祝陽が再興し,天正年間に現地に移った。1708年(宝永5)には幕府より法灯派総本山の称を許され,臨済宗が1876年に9派に分立すると相国寺派に属したが,79年国泰寺派名を公許され,1905年に独立して本山となった。現在,末寺35ヵ寺。
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国泰寺 (こくたいじ)

北海道厚岸郡厚岸町にある臨済宗の寺。山号は景雲山。1804年(文化1)江戸幕府により,東蝦夷地の役人や漁民の定着,アイヌの人心を安定させる目的で,有珠の善光寺,様似の等澍(とうじゆ)院とともに蝦夷三官寺に指定された。住職は鎌倉五山から交代で選ばれ,その在任期間は7~10年。住職は任期中に1回,役僧も年1回は遠くの国後(くなしり)・択捉(えとろふ)まで回勤した。各代住職の手になる日記《日鑑記》や《諸場所過去帖》は史料的に貴重。
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百科事典マイペディア 「国泰寺」の意味・わかりやすい解説

国泰寺【こくたいじ】

北海道厚岸(あっけし)町にある臨済宗南禅寺派の寺。本尊釈迦如来。1802年文翁の創建によるが,江戸幕府の蝦夷地(えぞち)政策の一環として1804年伊達の善光寺,様似の等【じゅ】(とうじゅ)院とともに東蝦夷三寺の一つとなる。十勝,釧路(くしろ),根室の各国と,国後(くなしり)・択捉(えとろふ)島を勢力範囲に収めた。寺僧の記録《国泰寺日誌》32巻を蔵する。
→関連項目厚岸[町]

国泰寺【こくたいじ】

富山県高岡市にある臨済宗国泰寺派本山。本尊釈迦如来。正安期(1299年―1362年)二上(ふたがみ)山に慈雲妙意が開創。東松寺と号していたが,1327年後醍醐天皇の勅願寺となり,改名して栄えた。応仁の乱等で兵火にかかり,一時衰えたが,1546年雷庭祝陽が再興した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国泰寺」の意味・わかりやすい解説

国泰寺
こくたいじ

富山県高岡市太田にある臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。初め,嘉暦2 (1327) 年慈雲妙意が同市二上山に創建して東松寺と号したが,のち後醍醐天皇の勅願所となって国泰寺と呼ばれた。応仁年間以後兵火によって焼け衰退したが,天文 15 (1546) 年,後奈良天皇のとき雪庭仏眼が現在地に移築。

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デジタル大辞泉プラス 「国泰寺」の解説

国泰(こくたい)寺

北海道厚岸郡厚岸町にある寺院。臨済宗南禅寺派。1802年、江戸幕府が和人の定着と慰撫を目的に建立。国泰寺跡は国指定史跡。桜の名所として知られる。

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