西島村(読み)にしじまむら

日本歴史地名大系 「西島村」の解説

西島村
にしじまむら

[現在地名]中富町西島

富士川の西岸、駿州往還を中心に集落を形成し、箱原はこばら(現鰍沢町)から新道切通しを抜けて一里、伝馬宿切石きりいし宿から二〇町余の所に位置する(甲斐国志)。村域は南北に縦断する往還に沿うように二〇町、東西に一五町の広がりをもつ(宝暦一〇年「村明細帳」望月幹清家文書)。建徳二年(一三七一)一〇月一五日の渋谷重門譲状(入来院文書)に「甲斐国西島内葦入在家田畠」とみえ、子息虎五郎丸(重頼)に譲られている。渋谷氏は相模国の武士だが、鎌倉時代中期に薩摩国に所領を与えられ一族が移住した。重門は入来いりき(現鹿児島県入来町など)を領して入来院氏の祖となった定心の六代目にあたるが、征西将軍懐良親王に従いこの譲状でも南朝年号を用いている。西島伝領の経緯は明らかではないが、当時の河内かわうちは南朝方の南部氏の勢力が強かったことに関係するであろうか。当地はその後も応永一三年(一四〇六)一一月一五日の重頼、同三〇年八月一六日および嘉吉元年(一四四一)二月二七日の重長、延徳二年(一四九〇)八月二一日の重豊と、一五世紀末まで渋谷氏代代の所領譲状(以上、同文書)に登場するが、同氏領としてこの時期まで実態を伴っていたかは疑問。天正八年(一五八〇)一〇月二八日、穴山信君は路辺にあった宗九郎の古廟を当地の江禅庵に移し、茶湯料として棟別諸役を免除している(「穴山信君印判状」広禅寺文書)

西島村
にしじまむら

[現在地名]稲沢市西島町・西島〈きた町・しん町・町・なか町・ひがし町・ほん町〉・生出はいで上山かみやま町・河戸こうど町・郷前ごうまえ町・西道根にしどうね町・東道根ひがしどうね町・ほん町・山田やまだ町・横西よこにし町〉

南は片原一色かたはらいつしき村に接し、村の西境を萩原古はぎわらふる(現日光川)、東境・南境を光堂ひかるど川が流れる。本郷は中央にあり本郷ほんごう中切なかぎり戌亥河原いぬいかわはら北河原きたかわはらの四区に分れ、北に支郷の生出があった。また村の中央を南北に流れる一宮井に沿って巡見街道が通っていた(天保村絵図、徇行記)

西島村
にしじまむら

[現在地名]深谷市西島・西島町一―五丁目・深谷町・稲荷町いなりちよう一―三丁目・稲荷町北いなりちようきた田所町たどころちよう天神町てんじんちよう寿町ことぶきちよう栄町さかえちようみどりおか

櫛挽くしびき台地北端の唐沢からさわ川右岸に位置し、東は幡羅はら国済寺こくさいじ村、西は萱場かやば村など、北は深谷宿。深谷領に所属し、かつて深谷宿の内にあったが、正保(一六四四―四八)以前に分村したという(風土記稿)。台地崖下の湧水帯にあって沼沢地が多く、国済寺にあった庁鼻和こばなわ城の西方にあたる低地内の島(微高地)に村名の由来をもつという。

西島村
にしじまむら

[現在地名]静岡市西島・登呂とろ六丁目・石田いしだ三丁目

西脇にしわき村の南に位置し、南は駿河湾に面する。中世は西島郷と称された。南北朝期は伊豆走湯山(伊豆山神社)領で、南朝方攻略のため一時期兵粮料所となったものの、延文三年(一三五八)一二月二六日の駿河守護今川範氏書下(写、「集古文書」所収伊豆走湯山東明寺文書)で「西嶋郷」は走湯山に返付された。所領交付は難航したが、翌年一二月一一日に走湯山衆徒に交付されている(「吉元打渡状写」同文書)

西島村
にしじまむら

[現在地名]浜松市西島町・福島町ふくしまちよう遠州浜えんしゆうはま一―三丁目

松島まつしま村の西、馬込まごめ川下流西岸に位置し、北は御給ごきゆう村、南は福島村。天正二年(一五七四)頃、明の船が当地の海岸で座礁し、唐人五人が徳川家康の吟味を受けたのち明に送り返されたという。また唐人のうち一人は浜松城下の平兵衛方に寄寓、医療技術者として診療にあたったと伝える(旅籠町平右衛門記録)。松平忠頼領郷村帳では高一二六石余、畑一二町六反余、うち川成一二石。同所野方一三石余、同所舟役六石。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録でも高一二六石余、同所野銭一三石余、同所舟年貢六石(代二貫四〇〇文)正保郷帳では舟役野方三三石余・畑方一二六石余。領主の変遷は西にし村と同じ。

西島村
にしじまむら

[現在地名]磐田市西島

村の東、太田おおた川に架かる東海道三ヶ野橋の東、東海道沿いにある。山名やまな郡に属する。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)の宛先に「西島」の孫左衛門・孫兵衛の名がみえる。慶長六年(一六〇一)八月の伊奈忠次手形(須賀神社文書)に「西嶋天王禰宜」とみえ、天王(現須賀神社)に社領四石余が寄進された。正保郷帳では高五六三石余、掛塚藩領。うち田方五二〇石余・畑方三四石余、全海ぜんかい(現曹洞宗)領三石余・牛頭天王領四石余。日損と注記される。元禄郷帳では高六六九石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本菅谷領。須賀すが神社に隣接して菅谷氏の陣屋があった。

西島村
にしじまむら

[現在地名]加賀市西島町

加茂かも村の東にあり、尾俣おまた川や市之瀬いちのせ用水で灌漑が行届いた穀倉地帯。正保郷帳によると高四六七石余、田方二三町余・畑方六町二反余、物成高一五四石余、ほかに新田高四七九石余(物成高一二一石余)、田方二一町二反余・畑方九町八反余。南部に出村の星戸ほしと村があり、「江沼志稿」では西島村とは別に高付されている。同書によると西島村の高八〇一石余、小物成は茶役四匁余、家数四八・人数一六九、馬七。弘化(一八四四―四八)以来綿花を栽培し、西島綿として郡中でも有名であったが、明治二〇年(一八八七)頃より減産し、同二五年頃には消滅した(江沼郡誌)。同四年のみの虫騒動では当村が一揆勢の屯集地の一つであった(加賀市史)

西島村
にしじまむら

[現在地名]新津市西島

新津丘陵の西側に位置し、東は東島ひがしじま村。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)に毛付八八石六斗余、荒一〇〇石一斗余と記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)によれば、一石五斗五升の炉役が九軒に課されている。寛永五年(一六二八)には村内の一部が旗本溝口三分家に分知され、正保二年(一六四五)の三分家知行目録(新発田市立図書館蔵)に三分家分六七石余が記される。正保国絵図には西島村二五〇石余・西島新田七〇石余とあり、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には二二七石三斗余とある。

西島村
にしじまむら

[現在地名]三根町大字西島字本分ほんぶん西分にしぶん東分ひがしぶん

東の筑後川、西の切通きりどおし川の間の低平地に東西に広く立地し、村の中央東寄りに寒水しようず川が流れる。弥生中・後期の貝塚線に位置する。元弘三年(一三三三)八月二一日の沙弥唯善田地売券(光浄寺文書)に「西島郷」とみえる。郷村帳にみえる枝村に本分・西分・東分・塩入しおいり古賀こが安福寺あんぷくじがある。

西島村
にしじまむら

[現在地名]岐阜市菅生すごう

菅生村の北に位置し、瓢箪形をしたしま輪中の胴部中央にあたる。北の北島村境は平坦地(標高一二・五メートル)慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高二四四石余。正保郷帳でも同高で畑方のみ。領主の変遷は東島村と同じ。当村・東島村、大野郡志名しな村・大衣斐おおいび(現揖斐郡大野町)年貢米の江戸廻米は菅生、大野郡岐礼きれ(現揖斐郡谷汲村)両村が請負って世話することになっている(「請負証文」近藤文書)

西島村
にしのしまむら

[現在地名]小矢部市西島

小矢部川右岸、水島みずしま村の西に位置。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数六、高木組に属する。正保郷帳では高二二五石余、田方一四町六反余・畑方四反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五一石・免四ツ四歩、小物成は野役六匁・鮭役五八匁・鮎川役一匁、鱒役二匁・猟船櫂役一〇匁(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では、元禄一二年(一六九九)から天保九年までの手上高九四石を加え、高三四五石・免四ツ四歩、ほかに新開高一石余。

西島村
にしじまむら

[現在地名]大井川町西島

相川あいかわ村の南に位置し、南西は大井川を挟んで大幡おおはた(現吉田町)。中世には西島郷とよばれた。文禄二年検地高目録では高五一三石余、ほかに西島新田一二二石余がある。元和・寛永両度の水害で大被害を受けたとされる(志太郡誌)。正保郷帳では田方九〇石余・畑方五石余、幕府領、ほかに曹洞宗福寿ふくじゆ(現廃寺)領二石・鏡満けいまん(現鏡満神社)領三石がある。

西島村
にしじまむら

[現在地名]豊川市西島町

瀬木せぎ村の西南にあたる。「牛久保町誌」には「古時志香須賀渡蒼海ノ中ナラン」としているのは、志賀須賀しかすが渡の頃はまだ海中であったとみたのだろう。また「豊島郷和泉荘」とも記してあるが、この郷も荘も知るところがない。「三河国聞書」の明応七年(一四九八)六月二五日の項に、「辰刻大地震、豊川吉田川之瀬替る。今ノ古川乎」とあって、古宿ふるじゆく村集落南を流れていた豊川の流れが、地震によって川筋が変わり、遥か南東に移って、旧河川敷の辺りに当村ができたものとみられる。

西島村
にしじまむら

[現在地名]平田町西島

高田たかだ村の南東に位置する。慶長郷帳にみえる多藝たぎ郡西ヶ島村は当村と考えられ、高一千四五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。同五年の竹腰山城守知行方目録(村瀬文書)に村名がみえ、高一千四五石余。正保郷帳では尾張藩領で、田五一七石余・畑五二八石余。明暦覚書によれば概免四ツ五分二厘余で、人数五三二、馬五二。

西島村
にしじまむら

[現在地名]高崎市西島町

東南流する井野いの川左岸際から東方に向かって広がる沖積平野にある。北は島野しまの村飛地、東は島野村、南は矢島やじま村。天仁元年(一一〇八)浅間山噴火による降下軽石層下から水田が農道や畦畔とともに検出された。群馬郡に属し、寛文郷帳では田方五二石余・畑方六〇石余、高崎藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報