駿州往還(読み)すんしゆうおうかん

日本歴史地名大系 「駿州往還」の解説

駿州往還
すんしゆうおうかん

河内かわうち路ともいい、身延久遠くおん寺への参詣路として身延みのぶ路ともよばれた。富士川流域の河内領を縦断して甲府駿河の東海道興津おきつ宿(現静岡県清水市)を結ぶ道。中世から利用されていた河内路が整備されたのは戦国時代で、永禄一二年(一五六九)八月一六日付で南部なんぶ宿(現南部町)に下された武田信玄禁制(朝夷一郎家文書)に「駿州往還」とみえ(南巨摩郡南部町の→南部宿伝馬の制も整えられていた(天正五年一二月二一日「穴山信君伝馬法度」同文書)。また武田氏はこの時期にしばしば駿河に軍を進め、この道が利用された。

「甲斐国志」の河内路の項に「古時伝逓ハ府中ヨリ三里半ニシテ市川大門宿(中略)、又三里半ニシテ岩間宿但帯那通リナリ、此処ニ廃関ノ迹アリ、後置黒沢宿、自市川一里十二町、超割石峠二里ニシテ岩間ニ出ヅ、慶長以後富士川通船開ケテ便通ナレバ西郡鰍沢宿へ逓送ス」とあり、以前は市川大門いちかわだいもん(現市川大門町)から割石わりいし(現同町と六郷町の境)を越え岩間いわま(現六郷町)南下、ここで富士川を西に渡って切石きりいし(現中富町)に出、同川右岸を南下した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報