藤沢(市)(読み)ふじさわ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤沢(市)」の意味・わかりやすい解説

藤沢(市)
ふじさわ

神奈川県湘南(しょうなん)地方にある京浜の工業・住宅衛星都市。1940年(昭和15)市制施行。1941年村岡村、1942年六会(むつあい)村、1947年片瀬(かたせ)町、1955年御所見(ごしょみ)村、渋谷(しぶや)町、小出(こいで)村の一部をそれぞれ編入。相模原(さがみはら)台地南縁から湘南砂丘帯にわたる平坦(へいたん)地をなし、夏涼冬暖の湘南型気候に恵まれる。JR東海道本線、小田急電鉄江ノ島電鉄、国道1号、134号、467号が通じる。市の西部から国道1号のバイパスの新湘南バイパスが西へ向かう。さらに1999年(平成11)には相模鉄道と横浜市営地下鉄が市北部の湘南台駅まで開通した。旧藤沢町は、古来相模東部から鎌倉、三浦半島に至る道路と東海道との交点にあたり、中世には村岡、大庭(おおば)両氏をはじめ、俣野(またの)、石川、飯田(いいだ)、渋谷の諸氏が割拠していた。室町時代に遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))前に門前町が発達し、江戸時代にはここを中心に東海道の宿場町が置かれた。

 1887年(明治20)東海道本線が旧宿場町を南へ離れて開通し、横須賀(よこすか)線の分岐点ともならなかったため、三浦半島の商圏を失い、町勢は衰えた。昭和初期に小田急電鉄が開通して鵠沼(くげぬま)から辻堂(つじどう)の海岸にわたる別荘地・住宅地開発のきっかけをなし、第二次世界大戦中には京浜工場の疎開、増設地域となった。現在は電気、機械、化学などの大工場があり、湘南工業地域の要地をなしている。北部から北西部へかけては戦後大規模な工業や住宅地の進出開発地域となり、また都市農業地(野菜、花卉(かき)、植木栽培)化が著しい。慶應義塾大学、日本大学、湘南工科大学などの校舎があり、学園文化都市でもある。

 片瀬は全国有数の海水浴場として知られ、その西方に県立湘南海岸公園、辻堂海浜公園などの観光施設があり、江の島の湘南港はヨットハーバーで知られる。城南の養命寺の木造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)は国指定重要文化財。辻堂の諏訪(すわ)神社と鵠沼の皇大神宮の人形山車(だし)、西富の諏訪神社の祭ばやし、藤沢の白旗神社の湯花神楽(ゆばなかぐら)、遠藤のささら盆踊は貴重な民俗芸能である。面積69.56平方キロメートル、人口43万6905(2020)。

[浅香幸雄]

『『藤沢市史』全7巻(1970~1980・藤沢市)』


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