藤島城跡(読み)ふじしまじようあと

日本歴史地名大系 「藤島城跡」の解説

藤島城跡
ふじしまじようあと

[現在地名]藤島町藤島

藤島のほぼ中央、字古楯跡ふるたてあとにある平城跡。現在八幡神社、県立庄内農業高校があり、その西方を藤島川が北流する。建久四年(一一九三)藤島城主土佐林右京守次正が、六所ろくしよ神社に修復料一三〇貫文を寄進したという(「六所神社旧記」同社蔵)。元弘三年(一三三三)出羽守葉室光顕が当城にあったとされ(藤島町史)、また暦応四年(一三四一)鎮守府将軍北畠顕信に派遣された中院具信が、光顕の遺子光世を補佐して藤島城に入ったとされているが(鶴岡市史)、いずれも確証がない。康永二年(一三四三)と推定される二月二一日の藤原公房書状(三浦和田文書)に「大泉庄藤島城」とみえ、藤原公房は当城の南朝方を攻撃するため嵩東山を警固することとなり、小泉こいずみ(現新潟県岩船郡)立島たてしまの大川に詰所を設置し、三月一一日より二〇日まで三〇人で警固することを奥山おくやま(現同県北蒲原郡)の三浦和田氏惣領に命じている。同じ頃の一二月一六日の藤原公房書状(同文書)によれば、同月一四日当城に拠る南朝勢が越後に入り、大河将長の城を攻め落している。南北朝内乱の頃、当城は羽黒山衆徒の勢力を背景に南朝方の拠点となり、越後国の北朝方と対峙したことが知られる。「大泉庄三権現縁記」永和三年(一三七七)条には「藤島宮目学頭赤井坊引」とある。

その後の城主は「大泉庄三権現縁記」文安二年(一四四五)条に「羽黒御本社修造、当国主土佐林和泉守氏光殿御建立」とあるように、土佐林氏であったと考えられる。

藤島城跡
ふじしまじようあと

[現在地名]福井市藤島町・林町

藤島町の北方、現西超勝にしちようしよう寺の地が城跡に比定されるが、地籍図には北と東にわずかな土居跡と細い堀がみられる。「越前国城蹟考」は「藤島村ヨリ三町計南四十間四方計之所土居有」と記し、この記述に従えば、町の南方上中かみなか町境にある字東館ひがしたち西館にしたち一帯に比定される。この地は通称をたちやまとして知られていたが、京福電鉄の路線床敷設の際、崩されて遺構は残っていない。南北朝時代、北朝方の足羽あすわ七城の一であった。「太平記」巻二〇(義貞自害事)に次のようにある。

藤島城跡
ふじしまじようあと

[現在地名]日進町藤島 元郷

藤島の西部にあった三〇間四方の平城の跡。岩崎いわさき城の東南およそ一キロの地点を占め、高さ二間の土居をめぐらし、東西二方に門の跡があり、東大手の入口は三間四尺ばかりと「尾張志」にみえ、水田の間に土塁の跡が残っていたが、昭和四二年(一九六七)耕地整理によって消失した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報