藤島村(読み)ふじしまむら

日本歴史地名大系 「藤島村」の解説

藤島村
ふじしまむら

[現在地名]藤島町藤島

庄内平野の中央、北に流れる藤島川の右岸に位置。江戸街道が通る。川を挟んで西南に上藤島村があり、もとは当村と一村であったが、嘉祥年間(八四八―八五一)の洪水で川筋が変わり、村が分断されて別村になったとの伝承がある(「六所神社記録」同社蔵)かみ町・中町・下町の三町に分れ、それぞれに肝煎が置かれ、検地帳も町ごとにつくられた。康永二年(一三四三)とみられる二月二一日の藤原公房書状(三浦和田文書)に「大泉庄藤島城」とみえるのが地名の初見とされる。中世には初め羽黒山の配下にあり、南北朝期の争乱では、藤島城が南朝の拠点となった。その後土佐林氏の居城となったが、同氏は羽黒山別当でもあった。戦国期には土佐林―武藤―小国―栗田―安倍―新関と城主が代わったという(筆濃余理)。最後の城主新関因幡守久正は最上義光の家臣で七千石を領し、当村および周辺の水不足を解消するため新堰開削を始めたが、未完のまま最上氏の改易となった。なお「大泉庄三権現縁記」大同二年(八〇七)条に「藤島 学頭宮(目)寺衆徒二千三百坊アリ」とみえ、永長元年(一〇九六)条には「藤島宮目学頭改易、羽黒山赤井坊行フ」、保安二年(一一二一)条には「秀衡公、藤島宮目三階塔御建立」などとあるが詳細は不明。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一千九二八石余、ほかに法眼ほうげん寺領九石(同年庄内寺社領目録)で、以後庄内藩領。寛永元年庄内高辻帳では高二千六三石余。

藤島村
ふじしまむら

[現在地名]十和田市藤島

奥入瀬おいらせ川の東西に開けた平地にあり、奥州街道が村内を通る。東南は五戸ごのへ(現三戸郡五戸町)、南は伝法寺でんぼうじ村、北は相坂おうさか村・三本木さんぼんぎ村、西は切田きりだ村に接する。

天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高一五六・八四五石、七ヵ年の平均免は一ツ九分四厘三毛とある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分一二五・六石余、給分一六・六石余、馬五三疋とある。家数八三のうち支村は上(和)島一四、小山こやま一一とある。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数四六のうち本村は駅場で二七、支村は小山一二、和島わしま七である。

藤島村
ふじしまむら

[現在地名]筑後市やま

秋松あきまつ村の西、山ノ井川左岸、花宗はなむね川右岸に位置する。本高は六六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一五五石・役高一六〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高一六〇石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田八町六反余・開田二反余・畑田三反余・畑三町余・居屋敷一反余。

藤島村
ふじしまむら

[現在地名]日進町藤島

西は本郷ほんごう村に隣接。周辺に標高一〇〇メートル内外の丘陵が連なり、その西端に周囲一・四キロの機織はたおり池がある。村は鎌倉時代、海部あま遠島とおしま(現七宝町)の住民が水害を避けてこの地に移ったことに始まると伝えられる。近村と同様に、中世後期には丹羽氏の所領となったが、藩政時代には渡辺氏の知行地として水野代官所に属した。集落は初め元郷もとごうとよばれる丹羽氏の居城付近にあったが、その部分に水田が開かれ、東西の丘陵地に移った。

藤島村
ふじしまむら

[現在地名]小牧市藤島町・藤島

小木こき村の南に位置し、西は岩倉いわくら(現岩倉市)に接する。天保の村絵図をみると地区の東部の小木境一帯は新田が多い。織田信雄分限帳に「参百貫文 藤島郷 上条又八郎」とある。正保五年(一六四八)に一〇用水が、明暦三年(一六五七)には五用水が引かれ地区の開発が進んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報